☆ 上には上がある
或劍術者の老後に申し候は、
「一生の間修業に次第があるなり。下の位は修業すれども物にならず、我も下手と思ひ、人も下手と思ふなり。この分にては用に立たざるなり。中の位はいまだ用には立たざれども、我が不足目にかゝり、人の不足も見ゆるものなり。上の位は我が物に仕なして自慢出來、人の襃むるを悦び、人の不足を嘆くなり。これは用に立つなり。
上々の位は知らぬふりして居るなり。人も上手と見るなり。大方これまでなり。この上に、一段立ち越え、道の絶えたる位あるなり。その道に深く入れば、終(つひ)に果もなき事を見つくる故、これまでと思ふ事ならず。我に不足ある事を實に知りて、一生成就の念これなく、自慢の念もなく、卑下の心もこれなくして果すなり。
柳生殿の『人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり。』と申され候由。昨日よりは上手になり、今日よりは上手になりして、一生日々仕上ぐる事なり。これも果はなきといふ事なり。」
と。
【 訳 】
ある剣士が、老後に言われたのは、
「一生の間の修業には、順序というものがある。下の位は、修業しても物にならず、自分も下手と思い、人も下手と思うものである。こういう状態では物の役に立つはずがない。中の位は、まだ役には立たないが、自分の足りない点が目につき、人の欠点もわかる者のことをいう。上の位は、すべては自分自身の物に消化して、自慢が出来、人を褒めるのを悦び、他人の足りない点を嘆くことの出来る者である。これは役立つ者といえよう。
上の上といえる人は、表面に出さず、知らぬふりをしているものである。それでいて人も上手と思うようになる。普通の場合、多くはここまでである。この上に、いっそう超越した至極の境地といったものがある。その道に深く入れば、終わりのないことに気づき、満足とはならない。自分の足りない点をよく知って、一生の間、これで充分と考えることもなく、慢心もなく、卑下する心もないようにして過ごすべきである。
柳生殿(将軍家指南役)が、『人に勝つ方法など知らぬ。自分に勝つ方法だけを知っている』といわれたそうである。昨日より上達した、今日より更に上達したと言って、一生の間、日々仕上げていくものなのである。修業とは、このように終わりのないものと言えよう。」
と。
この教訓は、今でもよく記憶に残っています。子供の頃、親や先生ら大人たちからうるさく言われてきたのが、「世の中、上には上がある。」ということでした。要は、「有頂天になるな。謙虚であれ。」との教えと理解しています。
自分は、体育が苦手だったので、武道の心得などまったくありませんが、『人に勝つ方法など知らぬ。自分に勝つ方法だけを知っている』との言葉は、何となくわかるような気がします。
人間には、良心・邪心、仁愛・憎悪、勇気・臆病、慎重・軽率など、常に相反する両面があり、意外や“真の敵”は己の心の内に潜んでいるもので、これに打ち克つ(克己)ことこそ最も重要、ということでしょう。あるいは間違った認識かもしれませんが。
「克己心」。こうした考え方が廃れました。昔だったら、子が親を超え、弟子が師匠を超えたとき、親や師は自分のことのように祝福を与えたものです。しかし、今はどうでしょう。子や弟子は、親や師匠の“七光り”をひけらかすだけで、己の精進・修業といったものをすっかり忘れていますまいか。上に立つ者も、己より抜きんでることを快く思わぬ風潮が社会全体を閉塞させているように思えてなりません。
人様が何と言おうと、人間一生が修業、ですね。
わたくしは、「道徳」よりも「修身」という言葉を好みます。「我が身を修める」とは、人様がどうであれ、自分自身のことだから自分でやる、という主体的な意志が強く表れるようで、いかにも日本的ではありませんか。日本古来の伝承法は、「教える」のではなく、「自ら学び取らせる」であったはずですよね。
ありがとうございました。
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