☆ 精神集中
物が二つになるが惡しきなり。武士道一つにて、他に求むることあるべからず。道の字は同じき事なり。然るに、儒道佛道を開きて武士道などと云ふは、道に叶はぬところなり。かくの如く心得て諸道を聞きて、いよいよ道に叶ふべし。
【 訳 】
興味関心が二方面に向くのが悪い。ひたすら武士道に励み、他を求めてはいけない。道の字は同じ事なのである。だが、儒学や仏法を知って見た時、武士道などというのは、道理に適ったものとは到底言えない。こう考えて諸道を学べば、いよいよ道理をわきまえられるようになるのである。
藝能に上手といはるる人は、馬鹿風の者なり。これは、たゞ一偏に貪著する故なり、愚癡ゆゑ、餘念なくて上手になるなり。何の益にも立たぬものなり。
【 訳 】
芸事が上手といわれる人は、とかく馬鹿みたいな者である。これは、ただひたすら一つの事に執着するといった愚かさから、余計な事は一切考えないで上手になっただけである。こうした人は、実のところ、何の役にも立たないものである。
【 解 説 】
上記は明らかに矛盾している。即ち武士道においては、武士道一途に専念する事が正しい道であるのに、芸能においては愚痴であるから、それ一偏に執着するなどと言って貶されている。
芸能という言葉は「葉隠」では、現代とは多少異なった意味を持っている。広く、才能技芸の事を言って、現代における技術者の技術もこの芸能に当たるものである。
常朝のいう意味は、武士とは全人的な存在であり、芸能を事とする人間とはファンクションに堕した一つの機能的な歯車にすぎないという考えがあったと思われる。
即ち、武士道一辺倒に生きるとは、一つの技術の習熟者として、一つの機能として扱われる事ではなくて、一人一人の武士が武士を代表しつつ、一人一人の武士が武士道全体を、ある場合には代表するという作用をいとなむものである。
我一人御国を背負うという覚悟を以て、大高慢で事に当たる武士は、その時もはやファンクションではない。彼が武士なのであり、彼が武士道なのである。従って、武士道一途に生きる時には、人間はただ人間社会の歯車に堕する心配はない。
しかし、技術に生きる人間は、殊に現代のような技術社会の一機能として作用する以外に、自分の全人的な人生を完成する事は出来ないのである。従って、武士が全人的な理想を持ちながら、同時に別な技術に執着する事になっては、機能を以て全体を蝕む事になるだろう。
「葉隠」が懼れたのはここであった。その理想的な人間像は、一部が機能であり、一部が全体であるような折衷的な人間ではなかった。全人には技術は要らなかった。彼は精神を代表し、行動を代表し、そして国によって以て立つ理念を代表していたのである。
三島の解説は素晴らしい。探せど見つからなかった宝物を、「これか?」と言って、今、ポンと目の前に示してくれた感じです。日本型組織を支えてきた國民の高い公(おほやけ)意識の根底には、これが「極意」としてあったわけですね。
この辺りは、外国ではほとんど類例を見ない、日本人の共同体(公)意識の本質に迫れる部分かもしれません。
コメント