☆ 死狂い
「武士道は死狂ひなり。一人の殺害を數十人して仕かぬるもの。」と、直茂公仰せられ候。本氣にては大業はならず。氣違ひになりて死狂ひするまでなり。又武士道に於て分別出來れば、はや後るるなり。忠も孝も入らず、武士道に於ては、死狂ひなり。この内に忠孝はおのづから籠るべし。
【 訳 】
「武士道とは死に狂いである。一人を倒すのに数十人がかりでも出来ない場合がある。」と直茂公が仰った。正気でいては大仕事を成し遂げることは出来ない。気違いになって死に狂いするまでである。
また武士道では、変な分別が出てくると、既に後れをとったも同然である。武士道にとっては忠孝なども論外なので、ただ死に狂いあるのみである。その内に忠孝は自然と宿るものだ。
【 解説 】
欺瞞を最も免れた極致にあるものは、忠も孝も、あらゆる理念もいらない純粋行動の爆発の姿である。常朝は単にファナチシズムを容認するのではない。しかし行動が純粋形態をとった時に、自ずからその中に忠と孝とが含まれてくるという形を、最も理想としている。
行動にとっては、自分の行動が自ずから忠と孝とを籠もらせることになるかどうかは、予測のつくことではない。しかし、人間の行動は予測のつくことに向かってばかり発揮されるものではない。それが「武士道は死狂ひなり」という一句である。
反理性主義、反理知主義には、最も危険なものが含まれている。しかし、理性主義、理知主義の最大の欠点は、危険に対して身を挺しないことである。もし、理知が盲目の行動の中に自ずから備わるならば、また、もし理性があたかも自然の本能のように、盲目な行動のうちに自ずから原動力として働くならば、それこそは人間の行動の最も理想的な姿であろう。
「この内に忠孝はおのずと籠るべし。」という一行は、はなはだ重要である。なぜなら、「葉隠」は単なるファナチシスムでなくて、また単なる反知性主義ではなくて、純粋行動自体の予定調和というものを信じているからである。
鉄は熱いうちに打て。 人間は若いうちに鍛えよ。
とは、『兵隊さん物語』(相原ツネオ)の扉絵に添えられた一節ですが、「根性」の巨石を背負い、「勇気」「規律」「責任感」「克己」「忍耐」「正義感」「信念」「友情」「気魄」という大粒の汗を流している初年兵の漫画が描かれています。
現代日本人は、物質的な豊かさと勝手気ままな生活という“ぬるま湯”にどっぶり浸かり、「己を鍛える」ことを忘れてしまったか、或いは意識的に回避するがゆゑに、心身ともに鈍(なま)ってしまったのではないか、と思います。
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