☆ 準備と決断
何某、喧嘩打返しをせぬ故恥になりたり。打返しの仕樣は踏みかけて切り殺さるる迄なり。これにて恥にならざるなり。仕課すべきと思ふ故、間に合はず、向(むかふ)は大勢などと云ひて時を移し、しまり止めになる相談に極るなり。
相手何千人もあれ、片端よりなで切りと思ひ定めて、立ち向ふ迄にて成就なり。多分仕濟ますものなり。又淺野殿浪人夜討も、泉嶽寺にて腹切らぬ越度なり。又主(あるじ)を討たせて、敵を討つ事延々なり。もしその内に吉良殿病死の時は殘念千萬なり。(中略)
總じて斯樣の批判はせぬものなれど、これも武道の吟味なれば申すなり。前方に吟味して置かねば、行き當りて分別出來合はざる故、大方恥になり候。咄を聞き覺え、物の本を見るも、兼ての覺悟の爲なり。
就中、武道は今日の事も知らずと思ふて、日々夜々に箇條を立てゝ吟味すべき事なり。時の行掛りにて勝負はあるべし。恥をかゝぬ仕樣は別なり。死ぬ迄なり。その場に叶はずば打返しなり。これには知惠も業(わざ)も入らぬなり。曲者といふは勝負を考へず、無二無三に死狂ひするばかりなり。これにて夢覺むるなり。
【 訳 】
或人が喧嘩の仕返しをしないが故に恥をかいたことがある。仕返しの方法は、踏み込んで斬り殺されるまでやるに尽きる。ここまでやれば恥にはならない。巧くやり遂げようと思うから、却って間に合わなくなるのだ。向こうは大勢だから大変だ、と言ってるうちに時間が経って終わりになってしまう相談になるのが落ちだ。
相手が何人であろうと、片っ端からなで斬りにしようと決心して立ち向かうことで、事の決着はつく。それで多分うまくいくものだ。また淺野家浪人たちの夜襲にしても、泉岳寺で腹を切らなかったのがそもそもの失敗と言える。主人がやられたのに、敵を討ち取る事が延び延びとなっていたが、もしその内に吉良殿が病死でもされてしまったら、取り返しのつかない事になる。(中略)
多くの場合、こうした批判はしないものだが、これも武士道の研究なので申し述べる。前々から調べておかなくては、事に当たって考える事はできかねるものだから、いざという時大方恥をかく結果になってしまう。話を聞き覚えたり、物の本質を見極めようとするのも、前々から覚悟を定めるためである。
なかでも武士道では、どんな時に覚悟の程を試されるような事態が起こるかもしれないと考えて、日夜事の筋道を整理して調べる必要がある。事の行き掛かりで、勝つ事も負ける事もあるものだ。だが、恥をかかないようにすることは、勝ち負けとはまた別である。とにかく死ぬだけである。その場でうまくいかなかったら、繰り返すだけである。これには、知恵も業も必要ない。したたか者というのは、勝負を考えず、遮二無二死に狂いするだけの者のことを言う。これで目が覚めようというものだ。
【 解 説 】
日々に覚悟を決めていかねばならぬ大きな思想の根源は、『葉隠』にとっては武士道において死ぬことであった。
長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、時期は必ずしも選ぶことが出来ない。それは向こうから降りかかり、襲ってくるのである。そして生きるということは向こうから、あるいは運命から、自分が選ばれてある瞬間のために準備することではあるまいか。『葉隠』は、そのような準備と、そして向こうから運命が襲ってきた瞬間における行動を、予め覚悟し、規制することに重点を置いている。
なんと、赤穗浪士討入り事件のことが書かれていますね。それも喧嘩(?)の仕方についての項で。TVもラジオもなかったこの時代に、赤穂浪士討入事件(?)が、遠く九州の地まで知れ渡っていたことが窺い知れます。あくまで肥前鍋島藩士山本常朝という一人の見解にすぎませんが、同時代の人が、「事件」をどう観ていたかを知るうえで、興味深いです。
いろいろ調べるうち、喧嘩両成敗に適わぬ処分の在り方をめぐって、世間に疑念を抱かせた幕府方も、かなり迷いが生じていたであろうことが窺えます。専制政治とされる当時といえども、世論(?)の動向には抗し難いものがあったようです。
『葉隠』の教えとしての喧嘩の仕方は、やられたら勝敗を度外視してすぐやり返せ、ということのようですね。赤穗浪士に対しても、何をぐずぐずしていたのだ、という苛立ちに似た批判を浴びせています。
特に、主君の死に際して殉死を禁じられたため、心ならずも生き延びてしまった常朝だけに、浪士たちが本懐を遂げたのち、主君の墓前で潔く腹を切らなかったのは失敗だった、と言い切っています。己の役割(初一念)を果たしたあとも、生き延びることは「恥」とされた時代だったのでしょうか。
ありがとうございました。
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