☆ 世間知
直茂公の御壁書に、「大事の思案は輕くすべし。」とあり。一鼎の註には、「小事の思案は重くすべし。」と致され候。
およそ大事と云ふは、二三箇條ならではあるまじく候。これは平生に詮議して見れば知れてゐることなり。これを前もつて思案し置きて、大事の時取り出して輕くする事と思はるるなり。兼ては不覺悟にして、その場に臨んで輕く分別する事も成りがたく、圖に當る事不定なり。
然れば兼て地盤を堅固に据ゑて置くが、「大事の思案は輕くすべし。」と仰せられ候箇條の基と思はるる事なり。
【 訳 】
直茂公の遺訓に、「大事な思案は軽くすべし。」というのがある。石田一鼎(儒者;山本常朝の師)は注記して、「小さな思案は重くすべし。」と述べた。
大事というからにはそう多くなく、せめて二つ三つの事柄であろう。このようなことは、普段から考えておけばわかることである。だから、大事については前以て思案しておいて、いざという時にそれを思い出して、簡単に処理する必要があるのだ。とはいうものの、逆に日頃の覚悟が足りないと、その場に臨んで即断することが難しく、うまくいかないことにもなりかねない。
だから、常日頃から心を決めておくことが、「大事のことは軽くすべし。」といわれたことの基本になるものではなかろうか。
【 解 説 】
思想は覚悟である。覚悟は長年にわたって日々確かめられ化ければならない。常朝は大思想と小思想に分けているように思われる。つまり大思想は平成から準備されて、行動の決断の瞬間に当たっては、自ずから軽々と成就されなければならない。小思想はその時その時の小事に関する思想である。プロスペル・メリメがかつて言ったが、“小説家というものはどんな小さいものにも理論を持っていなければならない。例えば手袋一つにも理論を持っていなければならない。”
小説家に限らず、我々は生き、生を享楽する側面では小さな事柄にも常に理論を持ち、判断を働かせ、決断を下していかなければならない。もしそれをゆるがせにすれば、生活体系は崩れ、大思想さえ侵されてしまうことがある。
イギリス人はお茶を飲む時に、「ミルク・ファースト」か「ティー・ファースト」か聞いて廻る。一つの茶碗の中にミルクを先に入れても、お茶を先に入れても同じようであるが、その小さな事柄の中に、イギリス人の生活の理念が確固としてあるのである。あるイギリス人にとっては、自分は紅茶茶碗に先にミルクを入れて、後からお茶を入れるべきであるにも拘わらず、もし人が先に紅茶を入れて、後からミルクを入れれば、自分の最も重大な思想を侵される第一歩と考えるに違いない。
常朝が言っている「小事の思案は重くすべし。」というのは、アリの穴から堤防が崩れるように、日常坐臥の小さな理論、小さな思想を重んじたことと考えられる。それが現代のようにイデオロギーのみが重んじられて、日常生活の瑣末のしきたりが軽んじられている、倒錯した時代に対するよい教訓なのである。
これが、どういう意味のことを言わんとしているのか、ボンクラ頭の自分にはわかりません。想像するに、大事は滅多にあることではないので、予めそれに備えて常日頃から訓練して覚悟を決めておけば、いざという時に慌てずに済む、ということでしょうか。
逆に、小事は日常生活における基本であるから、少しのぶれも疎かにすべきでない、という教えなのかもしれません。
ありがとうございました。
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