☆ 子供の教育
武士の子供は育て樣あるべき事なり。先づ幼穉の時より勇氣をすゝめ、假初にもおどし、だます事などあるまじく候。幼少の時にても臆病氣これあるは一生の庇なり。親々不覺にして、雷鳴の時も怖ぢ氣をつけ、暗がりなどには參らぬ樣に仕なし、泣き止ますべきとて、おそろしがる事などを申し聞かせ候は不覺の事なり。
又幼少にして強く叱り候へば、入氣になるなり。又わるぐせ染み入らぬ樣にすべし。染み入りてよりは意見しても直らぬなり。物言ひ、禮儀など、そろそろと氣を付けさせ、欲義など知らざる樣に、その外育て樣にて、大體の生れつきならば、よくなるべし。
又女夫(めをと)仲惡しき者の子は不孝なる由、尤もの事なり。鳥獸さへ生れ落ちてより、見馴れ聞き馴るる事に移るものなり。又母親愚にして、父子仲惡しくなる事あり。母親は何のわけもなく子を愛し、父親意見すれば子の贔屓をし、子と一味するゆゑ、その子は父に不和になるなり。女の淺ましき心にて、行末を顧みて、子と一味すると見えたり。
【 訳 】
武士の子供を育てるためには、一定の方式がある。まず、幼少の頃から勇気を鼓舞し、仮にもおどしたりだましたりしてはならない。小さい頃であっても、臆病心のあるのは一生の疵となるものだ。親たちの不注意から、雷の音に怖じ気づかせたり、暗がりなどへは行かせないようにし、泣き止まそうと思って、怖がることを話し聞かせたりするのはいけないことだ。
また、小さい頃強く叱ったりすると、内気な人間になってしまう。また、悪癖が身に染まらないようにしなければならない。一旦染まってしまうと、意見しても直りはしない。物の言い方や礼儀など、次第に気づくようにさせ、欲を知らぬようにさせたい。その外は育て方で、大体普通の生まれつきの者ならなんとかなるだろう。
また、夫婦仲の悪い者の子は不孝だと言うが、もっともなことだ。鳥獣でさえ、生まれ落ちてより、見聞きするものに染まるのだから、環境には注意しなければならない。また、母親が愚かなため、父と子の仲が悪くなることがある。母親は子供を溺愛し、父親が意見すると子供の贔屓をして、子供と示し合わせたりするものだから、その子はさらに父親と不仲になってしまう。女の浅はかな気持ちから、将来を打算して子供と示し合わせる結果になってしまうのだろう。
【 解 説 】
西欧社会における子供の教育は、同じアングロサクソンの中でも、イギリス式とアメリカ式ではっきり二分される。イギリスの伝統的な教育では、子供は大人の宴席に侍っても、一切大人の会話に口出しをしてはならない。また、子供同士の会話で大人の会話を攪乱してはならない。子供は無言を強いられ、そして、そのことによって社会的な訓練を経、自分が一人前の紳士として発言する機会に備えるのである。
アメリカ的教育では、子供は社会的訓練のためにむしろ積極的に発言することを要求される。大人は子供の会話を聞いてやり、大人とともに子供はディスカッションをし、それによって子供は小さいうちから自分の意見を堂々と述べることを要求される。
この二つの教育のどちらが正しいかは、今は言う限りではない。しかし『葉隠』の教育法は、意外にもジャン・ジャック・ルソーの「エミール」の自由で自然な教育の理論に似ているのである。因みに宝永七年(1710年)に始まった『葉隠』が佳境に入った頃、すなわち1712年にルソーは生まれている。
単なるスパルタ教育ではなく、子供に対して自然への恐怖や、無理やりな叱責を制御することに重点を置いた、子供は子供の世界においてのびのびと育ち、親の脅かしや叱りがなければ臆病になることもなく、内気になることもないというのが『葉隠』のごく自然な育児法である。と同時に、現代でもまったく通用する事例が後段で示されているのは興味が深い。
今でも、母親はわけもなく子を愛し、子供と一緒になって父親に対抗し、その子が父と不和になる例は至るところで見られるとおりである。ことに現代、父親の権威の失墜に伴って、ますます母親っ子が増え、アメリカにいわゆるドミネーティング・マザーのタイプが激増している。
父親は疎外され、父親と息子の間における武士的な厳しい伝承の教育は、今や伝承すべき何ものもないままに没却されてしまい、子供にとってすら父親は、ただ月給を運ぶ機械に過ぎなくなり、何ら精神的なつながりの持たれないものになってしまった。今男性の女性化が非難されていると同時に、父親の弱体化はこれと符節を合わして進行していると思わねばならない。
現代の一般家庭にそっくり当てはまりそうですね。渡部昇一先生の御本で、父権の喪失が日本をダメにしている、といった趣旨の記述を読みましたが、まさしくそのとおりな気がします。
家父長制度は戦後廃止されてしまいました。しかし、社会(共同体)生活の最小単位としての「家族」にこそ、日本式人間関係の秩序の原点があったように思います。
つまり、子の親への接し方は目上に対するもので、親が子に接する場合は、目下へのものであろうし、夫婦間は男女の役割分担そのものであり、兄弟姉妹は友人(先輩後輩)同士といった具合。
昔は、家庭生活を営みながら、上下横関係を意識した接し方が自然に身についたのではないか、と思うのであります。この基本をわきまえておれば、社会生活全般に応用出来ます。
ところが、『葉隠』でいうところの“愚かな母親”がのさばっているのが現代社会なのではないでしょうか。もちろん、女のせいばかりでなく、父親たる男の威厳も地に堕ちたものです。社会全体が、いいカッコはするけれど責任は取らない「弱虫」だらけになっているんですね。まあ、お前もその一人ではないかと問われれば、「はい、よく御存知ですね。」と答えるしかありませぬが・・・。
ありがとうございました。
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