☆ 外見の道徳
人の難に逢うたる折、見舞に行きて一言が大事の物なり。その人の胸中が知るるものなり。兎角武士は、しほたれ草臥(くたび)れたるは疵なり。勇み進みて、物に勝ち浮ぶ心にてなければ、用に立たざるなり。人をも引立つる事これあるなり。
【 訳 】
人が災難に遭ったとき、見舞に行った際の一言が大変重要である。その一言で、その人の気持ちがわかるからだ。とにかく武士というものは、しょげかえってくたびれた様子をしていてはだめで、勇猛突進し、すべてのものに勝ちまくるような気持ちでなかったら、役に立ちはしない。人を引き立てることも、またこうした点にある。
【 解 説 】
ルース・ベネディクトは「菊と刀」という有名な本の中で、日本人の道徳を「恥の道徳」と規定した。この規定自体にはいろいろ問題があるが、武士道の道徳が外面を重んじたことは、戦闘者、戦士の道徳として当然のことである。なぜなら戦士にとっては、常に敵が予想されているからである。戦士は敵の目から恥ずかしく思われないか、敵の目から卑しく思われないかというところに、自分の体面とモラルのすべてをかけるほかはない。自己の良心は敵の中にこそあるのである。
このように自分の内面に引き籠もった道徳でなくて、外面へ預けた道徳が『葉隠』の重要な特色をなすものである。そして道徳史を考える場合に、どちらの道徳が実際的に有効であったかは一概に言うことはできない。キリスト教でも、教会に自分の道徳の権威を預けたカソリックは、むしろ人々を安息の境地に置いたが、すべてを自分の良心一個に背負ってしまったプロテスタントの道徳は、その負荷に耐えぬ弱者の群を押しつぶして、アメリカに見られる如く無数のノイローゼ患者を輩出するもととなった。
「武士はしほたれ、草臥れたるは疵なり。」というのは、同時にしおたれて見え、くたびれて見えるのは疵だということを暗示している。何よりもまず外見的に、武士はしおたれてはならず、くたびれてはならない。人間であるからたまにはしおたれることも、くたびれることも当然で、武士といえども例外ではない。
しかし、モラルは出来ないことを出来るように要求するのが本質である。そして武士道というものは、そのしおたれ、くたびれたものを、表へ出さぬようにと自制する心の政治学であった。健康であることよりも健康に見えることを重要と考え、勇敢であることよりも勇敢に見えることを大切に考える。このような道徳観は、男性特有の虚栄心に生理的基礎を置いている点で、最も男性的な道徳観と言えるかもしれない。
昔の男には、押し並べてこうした風格というか、存在感がありましたね。亡父はどちらかといえば子供に甘く、滅多に叱ったりしないタイプでしたが。それでも家(うち)に居れば“無言の睨み”を背中に感じてきました。自分が成人したての頃見ていた父と、今や同じ年齢に達してしまいました。が、思い起こすに、己の頼りなさが際立ちます。
渡部昇一先生の言葉を借りれば「父権の喪失」ということになるのでしょう。これは、女(婦)権がもてはやされる時勢もさることながら、男自身が妻子におもねて自らの権利(?)乃至その役割を放棄してしまったのではないか、と愚考する次第であります。
ありがとうございました。
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