☆ イエスの預言(ユダの裏切りとペテロの否認) ☆
第15曲~第22曲(抜粋)
福音史家 「日暮れて十二弟子と共に席に着きぬ。斯くて皆の食するとき、言い給う。」
イエス 「まことに汝等に告ぐ。汝等の中の一人、我を売らん。」
福音史家 「弟子たち、いたく憂いて、各々イエスに向かいて言い出ず。」
弟子たち 「主よ、我なるか?」
福音史家 「イエス答えて言い給う。」
イエス 「我と共に手を鉢に入れて食を分かちたる者、我を売らん。人の子は、己につきて録されたる如く逝くなり。されど災いなるかな、人の子の渡さるるために用いられしその人は! かかる人は、生まれざりしかた良かりしものを。」
福音史家 「イエスを売らんとするユダ、答えて言う。」
ユダ 「ラビ、我なるか?」
福音史家 「イエス言い給う。」
イエス 「汝の言える如し。」
福音史家 「彼ら賛美を歌いてのち、オリブ山に出で行く。ときにイエス弟子たちに言い給う。」
イエス 「今夜、汝等皆我に躓(つまず)かん。『我羊飼を打たん。而して羊の群は散らさるべし。』と録されたるなり。されど我甦りてのち、汝等に先立ちてガリラヤに行かん。」
福音史家 「ペテロ答えて言う。」
ペテロ 「たとえ皆汝に躓くとも、我は断じて躓かじ。」
福音史家 「イエス言い給う。」
イエス 「まことに汝に告ぐ。暁を告ぐる鶏の鳴く前に、汝は三度我を否まん。」
福音史家 「ペテロ言う。」
ペテロ 「よし我汝と共に死ぬべきことありとも、汝を否まず。」
福音史家 「弟子たち、皆斯く言えり。」
叙唱(rezitativ)は、一般に通奏低音だけが用いられるので、静寂とした雰囲気が漂いますが、却って不気味に感じるものです。
聖句を追った叙唱よりも、自由詩から作曲されたアリア(詠唱)のほうが、人間の感情が込められているようで好きですね。このくだりでは、アリアは挿入されておらず、コラールが三曲挟まっているだけですが、受難を予感させるには充分です。
ここの叙唱部分を聴く限り、音楽的には面白くも何ともないところです。真摯な宗教楽に対し、少々不謹慎な評でありますが、率直な感想ゆゑ、主よどうかお赦しください。しかし、「聖書物語」としては、重要な箇所であろうと思い、転載させていただきました。
なお、イエスの預言は、第32曲~第46曲で成就することになりますが、それは次稿以降ということで・・・。
ありがとうございました。
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