☆ 十字架 ☆
第67曲~第71曲(抜粋)
福音史家 「斯くてゴルゴタ(髑髏)という所に到り、苦艾を混ぜたる葡萄酒を飲ませんとしたるに、イエスはこれを舐めしのみにて、飲まんとし給わず。
兵卒らイエスを十字架につけてのち、籤(くじ)を引きてその衣を分かつ。こは、預言者によりて言われしことの成就せんがためなり。曰く、『彼ら我が衣を互いに分かち、我が服の故に籤を引けり。』 而して兵卒らはそこに坐して、イエスを守る。その首の上には、死の刑を招きし罪状標掲げられたり。曰く、《これは、ユダヤ人の王イエスなり》。
茲にイエスと共に二人の強殺者、十字架につけられ、一人は右に、一人は左に置かる。通りがかりの者ども、イエスを誹り、頭を振りて言う。」
民衆 「神殿をこぼちて三日のうちに建つる者よ、己を救え!
汝、神の子ならば、十字架より降り来たれ!」
福音史家 「また同じく、祭司長らも律法学者、長老らと共に、嘲弄して言う。」
祭司長ら 「己を救うこと能わず! イスラエルの王ならば、いま十字架より降りよかし。さらば我等彼を信ぜん。彼は神に依り頼めり。神これをよしとせば、いま彼を救い給えや! そは彼言いしならずや、我は神の子なり、と。」
福音史家 「共に十字架につけられたる強殺者どもも、同じくイエスを罵れり。
昼の十二時より地の上あまねく暗くなりて、三時に及ぶ。三時頃、イエス大声に叫び言い給う。」
イエス 「エリ、エリ、ラマ、アサブタニ!」
福音史家 「こは、『我が神、我が神、何ぞ我を見捨て給いし!』との意なり。そこに立つ者のうち、或る人々はこれを聞きて言う。」
民衆 「こはエリヤを呼ぶなり。」
福音史家 「その中の一人直ちに走り行きて海面を取り、酸き葡萄酒を含ませ、葦につけてイエスに飲ましむ。他の者ども言う。」
民衆 「待て。エリヤ来たりて彼を救うや否や。我等これを見届けん!」
福音史家 「されどイエスは再び大声に呼ばわりて、息絶え給う。」
第72曲(コラール) と歌詞を換えた同曲
イエスの最期の言葉に際して、バッハがイエスの言葉に必ずつけていた弦伴奏を取り止め、悲痛な旋律を配している。その言葉を翻訳する福音史家が四度高くしてもう一度歌うことによって、悲痛さがいっそう真に迫る。
真に迫ると言えば、福音史家が「イエスは、息絶え給う。」と述べる部分。これに続く第72曲のコラール(イ短調)は、何と印象的なことか。これまで何回も歌われてきたコラール旋律だが、これが最後である。
イエスの最期です。クリスチャンなら、最も緊張する場面でありましょう。第72曲のコラールは既出ですが、ここでは己を省みるように弱音(「よわね」でなく「じゃくおん」)で歌われます。
風見鶏民衆の野次馬根性には呆れる。最初はイエスを救世主として期待しながら、逮捕されると途端に嘲り罵り、磔になったらなったで、今度は「神が本当に救いに来るか、それを見届けよう」だって。
信徒でないのでよくわかりませんが、クリスチャンにとって此処の「民衆」とは、“己”を指すのでしょうね。これを念頭において米国の世界戦略を考える時、事象における対応が、まさに聖書にある「民衆」の言動とそっくり似ていませんか。“米国の意思”なるものは、建前がイエスの教えであるなら、本音は民衆と同じ、という気がしています。
☆ 埋 葬 ☆
第73曲~第76曲(抜粋)
福音史家 「見よ。その時神殿の幕、上より下まで真っ二つに裂け、また地は震い、岩は裂け、幕開きて、眠りたる多くの聖徒の身体甦り、イエスの復活の後、幕を出で、聖なる都に入り行きて、多くの人に現れたり。百卒長及びこれと共にイエスを守りたる者ども、地震とこれらの出来事とを見て、いたく恐れて言う。」
百卒長ら 「げにこの人は、神の子なりき。」
福音史家 「またその所にて、遙かに見守りおりし多くの女あり。ガリラヤよりイエスに従い来たりて、仕えおりし女たちなり。その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフの母マリヤ、またゼベダイの子らの母もいたり。日暮れて、ヨセフというアリマタヤ出の富裕の人来たる。この人もイエスを師と仰ぎし者なりしが、ピラトに行きてイエスの屍の下げ渡しを請う。ここにピラト、そを渡すことを命ず。」
第75曲(バス・アリア;変ロ長調)
我が心よ、己を潔めよ。
我は自ら墓となりてイエスを迎え奉らん。
げにイエスは今こそ我が内に
とこしなえに
そのうましき憩いを得給うべければ、
世よ、出で行け。イエスを入らしめよ。
コラールにも似た発想の百卒らの「げにこの人は、神の子なりき」を契機に、音楽は安らぎと和やかさに傾いていき、その頂点がこの叙唱と詠唱である。
福音史家 「ヨセフ御体を受け取りて、潔き亜麻布に包み、岩を掘らせし己が新しき墓の納め、墓の入口に大いなる石をまろばし置きて、去りぬ。そこにはマグダラのマリヤと他のマリヤと残りて、墓に向かいて坐しいたり。明くる日、すなわち準備日の翌日、祭司長らとパリサイ人ら、ともどもピラトのもとに集まりて言う。」
祭司長ら 「閣下よ。彼の惑わす者、生きおりし時、『我は三日後に甦らん』と言いしを、我等思い出せり。されば命じて三日に到るまで墓を固めしめ給え。おそらくは、その弟子ら来たりてこれを盗み、『彼は死人の中より甦りたり』と民に言わん。然らば、後の惑わしは前のものより甚だしからん。」
福音史家 「ピラトこれに言う。」
ピラト 「番兵を汝等に出ださん。行きて、得心ゆく如く、これを固めよ。」
福音史家 「すなわち彼ら行きて、番兵をもて墓を固め、石に封印を施せり。」
祭司長らの言う「我は三日後に甦らん」の言葉がフーガ風に作曲され、すでに復活が描かれているようである。
第78曲(終曲合唱;ハ短調)
我等涙流しつつ跪き
御墓なる汝の上に願い奉る。
憩い給え安らかに、安らかに憩い給え!
安らい給え、苦しみ抜きし御肢体よ!
憩い給え安らかに、憩い給え心より!
御身を納めし墓と墓石こそ
我が悩める良心の
うれしき憩いの枕。
また魂の安けき逃れ場にてあれば。
憩い給え安らかに、安らかに憩い給え!
斯くてこの目はこよなく満ち足りてまどろまん。
夕方に信徒たちが墓所へ集まり、声を一つにして大合唱になる。それは確かに葬送の音楽なのだが、全体に清朗な安らぎ、静けさの雰囲気が溢れている。イエスの墓は我々の心に憩いの場となるのだからである。
ここの叙唱は、最も劇的な部分でしょう。大げさに言うと、天地がひっくり返ったよう。エルプもヘフリガーも唾を飛ばして絶叫しています。
第75曲の詠唱が好きです。リヒター盤のフィッシャー=ディースカウがいいですね。遺憾なことに、ヒュッシュ歌うラミン盤は、この曲が割愛されています。戦前録音は、収録時間の制約もあってか、全曲盤でも幾曲かのカットは常識でした。
『マタイ受難曲』を締め括る第78曲は、全曲中の白眉。単独でも採り上げられます。ギュンター・ラミンの前代トーマスカントルだったカール・シュトラウベの録音もあります。また、映画『南京の真実』宣伝放映のBGMにも使われました。
所蔵する三組のCDとも、甲乙付け難い好演です。強いて挙げるなら、ラミン盤でしょうか。全曲(割愛はある)をとおし、何の変哲もないようで、実際にはどの曲もレベルが高い。正統的な演奏とでも評しておきましょう。
ありがとうございました。
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