本日午前中、松栄山大分縣護國神社に登ってきました。
平日のせいか、参拝者は皆無。神社に出入りする業者の姿くらいしかありませんでした。あ、いやいや、午前十一時頃でしたので、命日祭が行われていました。
“日本一の破魔矢”が突き刺さっていることは、すでに知っていましたが、今度はその対面に“日本一の熊手”と称して松葉箒のお化けみたいな熊手が完成(?)していました。
今回、お愉しみ言霊記念館では、大分第四十七聯隊の特集が組まれてありました。西大分の駄原(だのはる)に兵舎と練兵場があったそうですが、昭和三十二年に移り住んだ当時(小四)は、逆方面だったこともあって、まったく記憶にありません。
最初はシベリア方面へ、続いて満支国境付近へ派兵されていたんですね。どうりで、この神社脇に「満蒙出兵記念碑」があるわけだ。その時の、山海関を警備する姿なども捉えてありました。別大国道仏崎付近を勇躍行進する姿や、由布・鶴見岳を背景にした教練帰り、大分駅前を街宣 凱旋行進する大分第四十七聯隊の凛々しい画像が残されています。
大分ご訪問の際には、ぜひお見逃しなく。
ところで、言霊記念館入口にあるのは、海軍高城発動機工廠の鐵扉ですが、傍の中学校に通う頃、それがそうとは知りませんでした。てっきり「百人力焼酎」工場の鐵扉だとばかり思っていました。
「百人力」は芋焼酎で、四六時中、その臭いをかがされながら授業を受けていたのですよ。超下戸にしてこの忍耐力、誉めてやってください。誉めると言えば、この工場で造っていた清酒のほうは、「誉栄冠」という銘柄でした。ここも、昭和三十年代末には閉鎖されてしまいました。
で、言霊記念館内には、海軍工廠防空壕から見つかったという零戦用エンジン「栄二一型」のシリンダーが展示されています。こんなもの、といっては何ですが、今にして思えば、防空壕で遊んでいる頃、ゴロゴロ転がっていましたよ。
説明文によると、工廠では鶴崎高女の娘さんたちが勤労奉仕していたようです。そして、修理・製造のうえ、今では大洲浜公園になっている海軍大分航空隊に納品していたのでしょう。昭和三十年代前半までは、廃墟と化していたものの、岩田町の海軍弾薬庫も残っていました。
西田高光 命 海軍第十三期飛行予備学生 大正十二年四月一日生 昭和二十年五月十一日没 神風特別攻撃隊「第五筑波隊」 南西諸島洋上にて戦死 享年二十二歳 海軍少佐 「民族の誇り」 神風特別攻撃隊第五筑波隊長 西田高光(大分師範)は、鹿屋基地で出撃を見送ってくれた海軍報道班員山岡荘八氏の問いにこう答えている。戦争当時、海軍報道班員であった山岡氏は海軍の鹿屋基地に配属された。そこで山岡氏は特攻隊員の『闊達さと自由さに時に傍若無人にさえ見えて、その実、接近するほど離れがたい別の美しさ』を感じていた。この底抜けの明るさがなぜ隊員達にあるのかという疑問をいつか解きたいと考えた。 彼はこの質問の相手を見つけた。それが西田中尉であった。西田中尉は入隊以前、昭和一七年四月四日から一八年九月まで、一九歳の若い教師として郷里の国民学校に奉職。六八名の教え子に兄と慕われた。そして、その師弟間の文通は飛行科予備学生として海軍入隊後も続いた。二〇年五月、古畳の上で胡座して、教え子に最後の返事を書いていた西田中尉に、『この戦を果たして勝ち抜けると思うか?負けても悔いはないのか?今日の心境になるまでにどのような心理の波があったかなど・・・』と質問した。 西田中尉は、重い口調で、現在ここに来る人々は皆自分から進んで志願した者であることと、もはや動揺期は克服していることを話した。そして最後に『学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・』と言われたそうである。 西田高光が命をかけた講和の条件は、その二ヶ月後にポツダム宣言(降伏勧告)として発表された。西田高光少佐が孤独な思索の中で紡ぎだした結論である。彼等の出撃は作戦的には全く無意味、戦果は限りなく零に近いだろう。作戦上の効果を論ずるとしたら功利的観点に立つということだが、特攻出撃は功利の観点を超越した発想だった。 西田少佐の言葉で「講和の条件にも」つながると見ているのはこの青年の冷静な知性を窺わせ、ただ敬服するしかない。だが重要なのは敗戦必至としても「その後の日本人の運命」にひびく深刻な意味が「特攻」にはこもっているという、この一事である。つまり「誇り」高き敗北を可能ならしめるか否かの問題である。そして現実に特攻死は誇るべき死であった。 敗戦は、当時の欧米帝國主義の視点で捉えれば、「民族追放」か「民族浄化」を意味する。彼等の誇り高き死があったればこそ、日本の存続を可能たらしめ、亜細亜の国々の独立の契機となったことは紛れもない事実である。 西田は死装束となる新しい飛行靴が配給された。すると、彼はすぐに部下の片桐兵曹を呼び出し、『そら、貴様にこれをやる。貴様と俺の足は同じ大きさだ』と言った。いかにも町のアンチャンという感じの片桐兵曹は顔色を変えて拒んだ。『頂けません。隊長の靴は底がパクパクであります。隊長は出撃される・・・要りません。』すると『遠慮するな。貴様が新しいマフラーと新しい靴で闊歩してみたいのをよく知っているぞ』『命令だ。受取れ。俺はな、靴で戦うのでは無いッ』 彼がパクパクとつまさきの破れた飛行靴を履いて、五〇〇キロ爆弾と共に大空へ飛び立っていったとき、山岡氏は見送りの列を離れ声をあげて泣いたそうである。西田中尉の出撃の二日後、中尉の母と兄嫁が基地に訪ねてきた。真実を話せなかった山岡氏は、中尉は前線の島に転勤したと告げ休息所に案内したが、そこには『西田高光中尉の霊』が祀られ香華が供えてあった。あわてた山岡の耳元に兄嫁が『母は字が読めません』と囁く。その場を取りつくろったつもりで二人を控室に伴い、お茶が出された時だった。『ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます』文字は読めなくても母親の勘ですべてを悟った中尉の母は、丁寧に挨拶し、兄嫁を励ましながら涙一滴見せずに立ち去った。 西田家に六男三女あり、『最後の従軍』が発表された頃、まだ三つの遺骨箱が並べられていた。中尉の遺志を継いで教師となった四男久光氏は、両親を助け葬式を出した。西田家の戦争は終わった。 ~ 「雲ながるる果てに」(白鴎遺族会)より ~ 西田高光海軍少佐は、靖國神社ならびに大分縣護國神社に祀られていらっしゃいます。 |
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