今回のダイヤ改正で、東京⇔九州間の寝台特急がすべて消えてしまったのですよね。思い入れのあるものにとって、これが「改正」であるはずもなく、「改悪」と言わずして何と申せませうか。
自分が初めて関東へ出てくる時(昭和37年8月;中三)に、博多駅から乗ったのが寝台特急『さくら』でした。初めて乗る最優等列車で、何だか急に偉くなったような錯覚に陥ったものです。
確かこの時は、山陽本線がまだ一部未電化で広島~岡山の県境付近では蒸気機関車が牽引していたと記憶します。そして途中、台風に遭い、岡崎~豊橋辺りで二時間以上停車のうえ、結局品川駅止まりとなって特急券払い戻しの“おまけ”がつきました。おかげで初上京は、東京駅に降り立つことなく、山手線(焦げ茶の省線型)内から見たのが最初でありました。
その後、『あさかぜ』『はやぶさ』『みずほ』、もちろん『富士』などにも乗る機会を得ました。しかし、若い頃は丸一日かけての急行利用が主流でしたね。『雲仙』『高千穂』『西海』『霧島』など。
大分小中学校時代の幼馴染み悪ガキ二人で、我が家(当時松戸市)を訪ねてきたのが昭和41年暮れのこと。その時がこの『富士』でしたね。謹んで東京駅までお出迎えさせていただきました。
お互い18・19歳の未成年だった三人ですが、まだ学生の身の当方に対して、あちらは既に就職しており一端の社会人。早くも煙草をくゆらせる姿が羨ましく見えたものです。二人は同じ工業高校出で、ともに自動車整備会社に勤めていました。
我らお上りさんの「東京見物」は、何処だったと思います?
皇居二重橋、靖国神社、東京タワー、羽田空港などはその頃の定番でしょうが、最大の目的はなんと銀座のジャズ喫茶ACB(アシベ)での『三田明ショー』見学でした。
その時の手紙が残っています。当然、自分が出した分は手許にありませんが、返信からどんな内容であったかは想像がつきます。彼らは「お前は文字が下手くそだ。」とか言ってさんざん貶しておきながら、うちの妹のことばかり訊いてくるんですよ。こんなのが許されるんですかね。いつの時代も、この年頃の興味が何なのかを窺い知ることが出来ます。
一人はのちに結婚して転職で消防士になり、それが縁でもないでしょうが、二年前に大分の彼を訪ねた際、「煙草は止めた」と言ってました。彼の結婚式には、自分が仕事で行けなかったので、うちの母親が代わりに行ってくれました。そんなわけで、自分にとっての彼の家族は「他人様」でしかありませんが、母は彼の家族事情について、まるで私立探偵みたいによく知っています。三十年近く逢っていない彼の電話番号を教えてくれたのも母でした。そんな時代だったんですね。
知り合った場所(当時のお互いの家)には、三人とももう居ません。が、変わり果てた傍を通ると、つい昔の記憶が甦ってきます。
ありがとうございました。
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