■ 第二十九課 菅原道眞
内地には至る所に、天神樣の社があつて、其の社には多く梅の木が植ゑてある。
これは菅原道眞といふ、忠義の心のごく深くて、學問の大層博かつた御方を祀つたものである。
菅原道眞は生れつき賢くて、子供の時には神童といはれ、僅かに十一歳で、梅の花の詩を作つた。道眞は學問にすぐれたばかりでなく、武藝にも達して居た。道眞が師の所に通學して居た頃、同門の者どもが、學問ではとてもかなはないから、弓の射くらべをして、道眞に恥を與へようとはかつた。道眞はさまざまに辭退したけれども、皆がきかないから、弓に矢をつがへて射放した。するとねらひたがはず、的(まと)の眞中(まんなか)を射ぬいた。何べん射ても、一度もはづさなかつたので、皆が驚いて、道眞が弓矢の道にも、すぐれて居るのに感心した。
道眞は成長してから段々出世して、天子樣に重く用ひられ、遂に高官にのぼつたが、まことに忠誠無二の名臣であつて、身を惜しまず政治に力を盡した。然るに惡臣どもは道眞を嫉んで、たびたび讒言を申し上げた。それで道眞は終に罪を受け、官をおとされて、京都から九州へ遷された。
けれども、道眞は、露ほども天子樣を怨み奉る心はなく、常に其の御恩の深いことを、有り難く思つて忘れなかつた。
道眞は終に九州で薨じたが、後に天子樣は其の罪をおゆるしになつたばかりでなく、高いくらいをお贈りになつた。日本中の人々は皆道眞の德を慕つて、方々に社を建てて、學問の神として祀つて居る。道眞は大層梅の花を好んだから、今でも其の社には、多く梅の木を植ゑて置くのである。
・ 練 習
一、道眞が學問にすぐれて居たことをお話しなさい。
二、道眞が武藝に達して居たことをお話しなさい。
三、道眞が忠義の心の大層深かつたことをお話しなさい。
四、天神樣の社のことをお話しなさい。
太宰府天満宮の近くで生まれた者として、菅原道眞公は身近な存在でした。が、学校では教わらなかったと思います。それでも、福岡市の小学校に通ってた時分には、遠足や地域の写生大会等でよくお参りに行ってました。
菅公が学問の神様ということぐらいは知ってても、子どもでしたから名物梅ヶ枝餅の香ばしい味しか憶えていません。
昭和43年二十歳のときに、この太宰府で担任の女先生を交えて小學一年時の同級会をしました。幹事をやった関係で学級名簿を先生から送ってもらった(その頃、千葉の松戸市に住んでいた)のですが、一学級七十七名も居たんですね。教室が足りなくて、入学当初は午前組午後組の二部授業だったと記憶しています。
先生によると、小一当時の自分は通信簿の所見欄にあるとおり、大人しすぎて共同の輪にも入っていけないほどだったらしいです。それが幹事を引き受けるまでになって、大そう喜んでくれました。ほんとうに優しい先生でした。
戦前は、尋常小學唱歌第五學年用第六課で「菅公」という唱歌が歌われていました。戦後、なぜ教科書から消えたのでしょう。
ありゃりゃ、リンク先ですでに同じことを書いていますね。たいへん失礼致しました。
ありがとうございました。
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