以下は、この「管理人の日記」からです。
★ 2006年2月18日(土)『高校生の日記』
学生時代に日記をつけていた。昭和40年1月から昭和45年11月までの記録が残っている。以下は、高校2年生1965年2月18日(木)の日記である。(級友名を伏せたほかは原文のまま)
スペースがなかったんでかかなかったが、かの黒人singerのN・K・コールが15日肺ガンで他界した。
1・2時限は薬師寺の高田坊主が話をしたが、若いのになかなかおもしろい話だった。3・4時限はスライドで、5時限は日紡本社から直輸入の“栄光の道”の試写会。その練習ぶりは聞きしにまさるものすごさだった。4:30ごろまで自由見学のコースをきめた。
帰りにKKとあった。Karajan-BerlinerPhil.(von)BrahmsNr.4はゆったりした演奏がよかった。Sから洋楽レコード目録をかえしてもらった。Tはあしたからでてくるそうだ。
第三者が読んでも、さっぱりわからない。第1段落は、前日の追加。第2段落は、学校での出来事。高田好胤師が講師とは凄いが、われながら生意気高校生ぶりに呆れる。1ヶ月後に修学旅行を控えていたので、その予備勉強会日だった。日紡映画は、前年の東京オリンピックで金メダルを獲得したニチボー貝塚女子バレーボールチームの記録。
第3段落は、帰宅後の出来事とこの日書き漏らした事がごっちゃになっている。ボクシング部員のT君は、喫煙がバレて、停学処分を食らっていた。高校生のやる事は、今も昔も変わらない。ボクシング部はかなり強かったが、その後、別の事件もあって廃部せられた。
日記があることで、当時の思考や関心事がわかって面白い。シュバイツァー博士の訃報記事など、新聞切り抜きも挿んであり、記録としても貴重だ。思想傾向は、今と少しも違わない。同一人物だから当たり前か。
次は、昭和39年12月28日(月)の「私的日記」(高二)
~前略~
この日記を10年、20年後に見たとしたらどうだろう。
きっとなつかしく、ふきだすにちがいない。
でも日記はつけるべきだな。
ではお休み。ガチョン
更に遡って、昭和35年12月30日(金)、中学一年時の「生活記録」より。
朝起きて見ると雪が1cmぐらいつもっていた
雪だるまを作った
外の温度をはかったられい下3度だった
《先生のコメント》
物の観察の仕方、態度は立派だ。
この様な態度をのばして行こう。
同じ日記でも、目的別に記述内容が変化してきます。最初の例は、HPで公開したもの。但し、第一次史料の「日記」は私的日記。故に公開に当たって、級友名は伏せました。実名を挙げても、第三者は知る由もないとは思いますが、最低限の配慮です。
二番目は、私的日記のオリジナル記述。自分で公開しても差し支えないと判断しただけ、です。最後の例は、中学校の「生活記録」で、当然、先生に「見てもらう」ために書いています。
「私的日記」は、他人に「見せる」ためではなく、むしろ「見られたくない」事柄を書くこともあります。自分の「私的日記」は長らく実家の押入れに眠っていたため、おそらく両親には「見られた」と思います。でも、そのことへの言及はお互いにしません。自分の「私的日記」は、棺の中へ一緒に入れてもらうよう、妹や甥姪に「遺言」しておきます。
昨年、いわゆる「冨田メモ」の騒ぎがありました。ましてや、「国民統合の象徴」であらせられた先帝陛下に関わる問題です。煽り立てたマスコミの見識を疑います。
2007年4月5日(木)の記事
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