日本文化の基本はまず「型」に嵌ることではないかと、最近になって思うようになりました。一旦「型」に嵌らなければ、「型」を破ることもできない、と考えます。
タイ國でも日本でも仏教思想が深く生活に根付いていますが、タイ仏教には「宗派」がありません。仏教は仏教でしかないのです。ところが、日本の場合は、同じ仏教でもさまざまな「宗派」があります。禅宗、日蓮宗、真言宗、曹洞宗から創価学会に至るまでたくさんたくさん。
「華道」「茶道」「剣道」にも「家」や「流派」があります。相撲界の横綱土俵入りは「雲竜」「不知火」の型がある。そして、力士は「一門」と「部屋」に分かれている。行司には「木村」「式守」の二つの名籍がある。プロレスだって興行組織が分裂しながら、プロレス界としてまとまっている。野球界もプロ、社会人、大学、高校で住み分けがある。教育界で言えば、昔の藩校が官立とするなら、寺子屋は私学の前身と見ることもできます。
何が言いたいかと申しますと、日本の社会は、同じ分野でも選択肢がたくさんあり、お互いが競い合って切磋琢磨する仕組みになっているのではないか、ということです。
教育界に話を戻すと、均質の教育など無理だし、むしろあってはならないと思うのです。国公立校があって私立があるから双方の優点劣点が判る。要するに、金太郎飴みたいに同じ人間を生み出すのは社会を壊す結果になってしまうと、思うのです。誰もが総理大臣になれるわけではないし、トイレ清掃員も必要なのですから。
「あなた作る人、わたし食べる人」で、作る人がおらず、みんなが食べる人になってしまったら・・・。なんて考えると空恐ろしくなるこの頃です。
2007年4月28日(土)の記事
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