行って参りました、大分縣護國神社のある松栄山。小四~中三の約五年半、馴れ親しんだ元自宅の裏山です。或る時は、木枝を利用して住処をこしらえ、或る時は木登りに興じ、また或る時は棒切れを吊るして独り剣術の武者修行をしたところ。真下に母校(中学)が見下ろせて、ちょっとしたデートコースにもなっていました。八月十五日の「みたま祭り」には、骨董市や夜店が並んで賑やかでしたが、今はどうなのかな。
元自宅側、急な「隠れ参道」から登りました。帝國海軍大分航空隊司令部の防空壕は消え、景観は変ったものの、表札をみると、当時とほぼ同じ人々が住んでいるようです。「我が家」はガレージに姿を変えていました。屋根が苔生して往時を偲ばせます。参道の杉や楠の匂いが懐かしい。社殿前に、「日本一の破魔矢」の大看板があり、三十尺はあろうかと思われる巨大な破魔矢が地面に突き刺さっていました。
社殿脇には「言霊記念館」(子供時分はなかった)という小博物館があります。以前、西田高光海軍少佐の言霊を紹介しましたので、今回はタイ国ゆかりの人をあげます。
「十二月八日」
タイ王国元首相 ククリット・プラモード
日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない。
註)昭和三十年、総理になる前の軍人時代の言葉。「この日」とは、いうまでもなく昭和十六年十二月八日のこと。
2007年3月5日(月)の記事
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