有史以来、積極的に他国の文化・文明を取り入れながらも、伝統的精神(大和魂)だけは、厳然と変質を許さなかった。戦後は、その精神までもが変質してしまったのだろうか?
我が国体(国柄)は、古代から一貫して変わっていない。
そう考えると、すべてがうまく説明できそうだ。
戦前・戦後、自由主義・社会主義、民主政治・独裁政治などと、無理に区分してしまい、自らの考えをややこしくしていた。我が国は、独自の伝統的精神がその底流にあり、他国とは似て非なる唯一無二の国柄、と言うことだ。
思うに、日本に限らず、欧州、中東、中国・韓国とも、体制が変わっても、底流にある精神構造は昔と同じで、文化圏ごとに、何ら変化していないように感じる。
日本型社会とは?
無常観に基づく、相互扶助を理念とする滅私奉公型社会。
と定義してみた。
個人の能力は小さく、一人ではとても生きられない。だから、お互いが助け合って生きる。
個々人は万能ではないし、能力も各々違う。自分でできることは自分でし、自分にできないことは、他人様に助けていただく。その代わり、自分の持つ能力で他人様をお助けする。それには、みんなが同じ“金太郎飴”であっては困る。お互いが違う能力を持つ存在、と認め合わなければならない。
世のため、人のために「滅私奉公」を是とすること自体、我が国以外には見られない美風、と思う。結果として、そうなることがあっても、他国の人々の出発点は、常に「自分のため」がありそうだ。
我が国のみならず、科学的合理主義の病理が蔓延する現代世界は、『教育勅語』ですべてが解決できる気がしてきた。
2006年7月17日(月)の記事
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