広辞苑によれば、魂(たましい)とは『生物の肉体に宿って心のはたらきをつかさどると考えられるもの。古来多く肉体を離れても存在すると信じられた。』とある。「仏作って魂入れず」の言葉は、どんなに立派な仏像を彫っても、魂が宿っていなければ、ただの木片に過ぎない、という意味であろう。魂の存在は、西洋流科学万能主義では解明しえない。
日本の電子機器・自動車・精密機械等がなぜ、世界のブランドになり得たのか。それは、“魂”が込められているからと、言っておこう。要するに、消費者の立場で創意工夫が凝らされている。自動車を一例にすれば、欧米メーカーがかたくなに左ハンドルのまま生産を続けていた頃、日系企業は輸出先の国情に即して位置を変えた。最近になって、ようやく欧米車の右ハンドルも見られるようになったが、ユーザーの動向に驚くほど鈍感である。子供向け菓子でさえ、西日本では東日本よりも若干甘味を加えてあるという。
子供の頃、魂の存在を信じていた。夜、お化けが出るのではないかと思い、墓場の前を通るのが怖かった。成人して、すっかり科学的合理主義に汚染されてしまい、お化けは迷信として墓場を怖がらなくなった。しかし、五十歳を超えると、再び霊魂を信じるようになってきた。世の中には、時として説明できない不思議なことが起こるからだ。
父親が亡くなる前日、いやな予感がした。入院していたものの、術後の経過も良く、心配する状態ではなかったのだが、事実、容態が急変して他界した。仕事でも、機械相手に苛立っていると、言うことを利いてくれない。「毎日、ごくろうさま」といった態度で接すると、実に調子よく作業をこなしてくれる。機械にも魂があるのだろうか。
3月下旬、花見をかねて靖国神社にお参りしてきた。桜花が満開だった。屋台も出ていた。花見の方は、ゴザに代わって青いビニールシートが敷いてあったりして気分が出ない。それはともかく、遊就館前には、軍馬・軍犬・軍鳩の鎮魂碑がある。英霊だけでなく、護国の生物まで顕彰するところが、日本的ですばらしい。
2006年4月21日(金)の記事
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