「国民性を知りたければ、その国の議会を見るがよい。」と言ったのは、名前は忘れたが、西洋のある学者である。国民の最大公約数が集う議会なら、国民性もそこに収斂されている、ということなのだろう。
英国議会では、議員がかつらをかぶり、ジョークを交えて闊達な議論をする。伝統を重んじる民主主義先進国らしい。中国全国人民代表大会は、政府要人の報告をただ黙って聞き、野次や反対意見などまったくない。思考停止した代表者たちが、ロボットのように全員賛成して法案を可決していく。人民主権とは名ばかりの、一党独裁国家ならではの光景が見られる。同じ民族でも、台湾立法院は、しょっちゅう刃傷沙汰が起きている。強力な指導者がいないと、百家争鳴でまとまらないということか。
翻って、わが国会はどうだろう。特定圧力団体に、利益を誘導する議員。不戦平和を声高に叫ぶ、お伽の国からきたかのような政党。政教分離を説く宗教母体の政党。外交は、無節操に金をバラ撒くだけ。恫喝されれば、ひたすら頭を下げることしかできない。失礼ながら、小泉総理は、稀代の博徒宰相である。目先の勝負勘は鋭い。しかし、長期的な視野が、ゼロに等しい。打つ手が当たっているうちはいいが、はずれるとスッテンテンになってしまう。首相に限らず、自分さえよければ、他人は知ったことか、と勘ぐりたくなる人士があまりにも多い。都合の悪いことは、他人任せにしておきながら、成功すれば自分の手柄、失敗すれば他人のせいにする。昔流に言えば、卑怯者の集団に見えて仕方がない。
こうした傾向は、彼らだけが持つ特性なのだろうか。いや、彼らの姿は、自分を映す鏡なのである。彼らと同じ卑怯な考え方が、社会全体を覆っているではないか。この責任の一端は、社会の構成員たる自分にもあることを、肝に銘じなければならない。
昔の権力者(武士)は、脇差を身に着けて仕事した。失敗したら切腹(責任を取る)するためだ。仕事は、命懸けだったのである。実際に、腹を斬らされてはたまらないが、少なくとも、この覚悟を持って物事に臨みたい。
2006年2月25日(土)の記事
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