習近平の“大誤算”
まさか中国の若者たちが「三人っ子政策」にブチ切れ始めた!
6/23(水) 16:02配信/現代ビジネスWEB版
中国経済の高齢化に焦る習近平が打ち出した「三胎政策(三人っ子政策)」が、中国の若者たちの不評を買っている。そうした中、いまの中国で流行しているのが「内巻(インボリューション)」「躺平(寝そべり)」というキーワードだ。激しい競争社会を勝ち抜いても、決して報われるとは限らない中国社会の“過酷さ”に消耗する様が「内巻」とされる。そうした中で、「躺平(寝そべり)」の境地に達する若者たちが急増しており、これが中国の“大きな問題”となってきているというのだ――。
■習近平への「抵抗」
中国ではいまや社会階層のピラミッドのてっぺんのほんの一の富裕層が総どりし、ほとんどの大衆は懸命に努力しても報われず、階層の固定化が進んでいる。
こうした報われなさに悔しがることさえあきらめた境地が「躺平(寝そべり)」だ。
一種の仏教系の悟りにも似ているが、階級の固定化に対する無言の反抗、という見方もある。「躺平学大師」(寝そべり学師匠)と呼ばれる匿名のネットユーザーの「躺平こそ正義。寝そべりながら、かくれてあくせく働く人を笑っていたい」という発言は、中国の若者に広く共感を得て、メディアにも取り上げられた。
これは習近平が2017年の新年のあいさつで「みんな袖をまくって頑張って仕事をすれば、この時代の長征(国民党軍の包囲網からの紅軍の撤退戦、進退極まった時の持久戦を表す言葉として使われている)の道程を必ず乗り切ることができる」と、人民に一層の努力と我慢を呼び掛けたことへの抵抗という見方がある。
特に新型コロナ下では、人民に我慢と犠牲を強いるスローガンが繰り返されたとも関係ありそうだ。
■やる気を失った「中国人たち」
ちなみにこうした無気力カルチャーは日本が先行モデルだという。これは中国でも日本の「低欲望社会」として紹介され、断捨離やミニマリストといったライフスタイルがむしろ、かっこいいものとして一部の中国の若者たちには受け止められている。
だが、こうした風潮が、日本の長引く経済のデフレのひとつの要因でもあり、失われた10年が失われた30年に伸びた背景だ、という分析もある。
躺平という言葉が最近急に注目されるようになったのは、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で世界の中央銀行が一斉に金融緩和に動いたことが導火線であったという。
これら資金が株、ビットコイン、不動産などの資産価格を高騰させ、さらに少数の富裕層のみがこれで利益を得たのに対し、大多数の人々はなんら恩恵を受けず、むしろ貧富の格差が拡大し、階層の固定化がさらに進み、多くの人がどうしようもない、と完全にやる気をうしなった、ということらしい。
さらに、中国当局が、若者のこうした傾向に危機感をもち、中国官製メディアが躺平主義に対する批判キャンペーンを展開したことが、さらに有識者らの議論をよぶことになった。
■ジャック・マーも嫌い
こういう状況を総合して、今後の中国の社会、経済の動向について目下、さまざまな提言や意見が飛び交っているのだが、「内巻」は結局のところ、悪性の内循環でしかなく、この状況を突破するためには、イノベーションによる外向きの発展の流れを作るしかない、というのが概ねの体制内学者たちの主張だ。
内循環を「双循環」に転換し、国際市場への窓口を大きく開き、経済構造のレベルアップとグローバル化を進めて、経済のパイ自体を大きくしていくことが必要だと訴えられている。
だが、「内巻」への抵抗感をもち、「躺平が正義」と言ってのける若者世代が怒りの矛先のひとつを向けるのは、実はアリババの馬雲(ジャック・マー)らに象徴される、グローバル経済を牽引すべき民営企業家の資本家たちだったりする。
彼らは過当競争を勝ち抜き「996」以上のブラック労働を乗り越えた成功者であり、若い世代にも同様の競争と頑張りを当然のように強要し、それについてこられない人間は負け組として切って捨ててきた。
庶民の民営資本家に対するこうした「恨み」からくる風当たりの強さが、習近平の「民営企業家いじめ」とも見える厳しい共産党の指導強化、「国進民退(国有企業推進、民営企業の後退)政策の後押しをしているともいえる。
この民営経済の後退は、イノベーション活力の後退につながると懸念もでている。しかも、習近平政権は経済のグローバル化もスローガンとしては掲げているものの、欧米英など西側自由主義経済とのデカップリングが進む流れが大きく転換する見込みは、今のところ見えない。
無気力カルチャーは日本でも蔓延し、おそらくそれが経済や社会の停滞感とも関連しているのだろうが、個人的な感覚としては中国の場合、単なる無気力ではなく、比較的はっきりとした「若者の抵抗」の意思を感じる。
「三人っ子政策への抵抗」「内巻への抵抗」「躺平による抵抗」――。
では、日本と中国の差は何か、といえば幅広いの中間層が存在するか否かではないだろうか。
■若者たちの「静かな革命」
日本は貧富の格差が徐々に開いているとはいえ、やはり中間層が主流。その中間層を維持するための社会福祉システムがとりあえず存在する。
生活保護、国民年金、医療保険などだ。そこそこの生活を維持しながら、足るを知る「低欲望」の暮らしをよしとするのと、中国の絶望的な貧富の格差の中で「努力を放棄する」ことは、意味合いがかなり違う。
中国は日本ほどの社会福祉制度設計ができていないにもかかわらず、人口オーナス時代に突入し、格差固定が進み、その格差が開き、中間層が消滅しかかっている。
中国の若者の「無気力の抵抗」は、私は一種の消極的な革命ではないか、という気がしている。
だとしたら、本当の意味での中国が直面する問題の解決の道筋はやはり体制の転換しかないということになる。
福島 香織(ジャーナリスト)
コメント総数;252
一、石川智久(ニッポン総合研究所調査部マクロ経済研究センター所長)
去年、李首相が中国では月収1000元(約1.5万円)の人々が6億人にいると表明しましたが、このような低所得な環境では、多くの若者がやる気を失うのも理解できます。国際政治では中国は強気でいますが、少子化、貧富の格差、人々のやる気といった内政の問題が中国の弱点になるとみられます。
二、中国の約5%の上級階層は、超~~大金持ち、超~~贅沢な暮らしですが、約70%の10億人は、それほど豊かでなく、そのうちの約5億人は、年収50万円以下です。
その中~低所得の労働者が「世界の工場」で、連日連夜、懸命に働かれ、値段競争で優位になり、格安製品が輸出できます。
莫大な利益は、階級社会の頂点に君臨する 約5%の上級国民だけに還元されます。
専門家は、低所得の労働者が高収入になれば、内需拡大する言いますが、そうなれば『世界の工場』の価値も無くなり、高賃金も払えなくなり、かつての日本のように、中国は工場閉鎖、シャッター商店街になります。
その打開策として、一帯一路で海外進出してますが、21世紀の植民地政策みたいなもので、大金を投資した割には、見返りは長期返済です。
ほとんど借金返済されず、借金のカタに「中国の領土」になり、植民地となるでしょう。
三、中国で一生懸命やっても結局中共に取られてしまう。共産主義とは結局は独裁ってことなのでしょう。3人政策も今まで1人しか育てて来ていなかった民が3人など育てられるはずがない。中国内部は思っている以上に様々な難題でひっ迫しているのかもしれない。
同じニュースを何度も採り上げて恐縮だが、中国という稀代の悪鬼の「弱点(弱味)」を探るうえで、重要なヒントとなりそうな事象なので敢えて話題にする。執筆者の福島香織氏は右派系マスコミに度々登場し、ちょっとは知られたジャーナリストだ。然りながら、ビジネス誌の限界からか、コメントも含めて経済面(カネ)ばかりに眼を奪われ、〝文化の違い″にまで言及してないのが物足りない。
結論から書けば、経済面に着目するなら、「貧乏を恥としない(金儲けを潔しとしない)」「労働を悦びとする(勤勉を美徳とする)」か否かの単純な文化論だと思う。もっと言うなら、公共心の有無である。公共心(公共のために尽くそうとする気持)は共同体(ゲマインシャフト)運営の根幹だが、共産主義もあらゆる富を国有化して人民に公平分配するという意味で共同体型社会を理想としている。
然るに現代中国の現状はどうか? 共産主義とは名ばかりで、貧富格差が拡がる一方。共産主義の敵とされた嘗ての富裕層(ブルジョア有産階級)が、プロレタリア無産階級に駆逐されたわけでなく、何のことはない中国共産党幹部が代わって居座っているだけの話ではないか。革命の主役であるはずのプロレタリア無産階級(労働者・農民)は、相変わらず貧困に窮している有り様だ。何故か? 中国共産党の正体が、共産主義者の仮面を被った匪賊(当世風には「反社会的勢力」)だからだ。公共心など育とうはずもない。話は逸れるが、'80年代、国営商店の壁には「為人民服務(人民のために奉仕しよう)」のスローガンが貼ってあった。何と空しかったことか。因みに小学校のスローガンは「習雷鋒(雷鋒に学べ)」。雷鋒(1940-1962年)とは、農場・工場で人民に奉仕したとされる解放軍兵士で、死後英雄に祭り上げられた人物。
もう一つの問題点は、労働者・農民の心情である。伝統的に他人が信じられず、拝金主義(金儲け)に奔る。労働が悦びどころか、苦役(懲罰)のように考える。何せ。楽な暮らしが栄耀栄華の証とする風潮が蔓延しているのだ。「躺平(たんぴん)」現象は今日始まったわけではない。'80年代に五回ほど訪中経験があるが、その時も、待業(失業者ではなく求職者という意味)青年が、大挙して真昼間から何もせずにタバコをふかしながら歩道にへたり込んでいた。働かないのではなく、働きたくとも仕事がない事情は察するが、見るからに瘋癲(フーテン)そのもの。何としても職に就きたいという真剣な眼差しには見えなかった。その時、若者がこんなに怠惰では、中国に希望などないと深く失望したものだ。、
歴史的な経緯もあって、我ら日本人と彼ら中国人では、物の観方考え方が真逆と言っていいほど極端な違いがある。ここを見落として表面(おもてづら)だけで論じても、机上の空論に陥ってしまうだけだ。文化の違いを端的に表しているのが、【弱きを救け強きを挫く】か【溺れる狗を叩く(弱い者いじめ)】の差だろう。前者は共同体社会の正義だが、後者は禽獣的弱肉強食型社会の常である。古来より、人類が目指す「進歩」とは、弱肉強食型社会から互助互恵型共同体社会を築くことだと信じて疑わない。その意味でも、現代中国は「先進国」どころか、発展途上国とも認め難い二百年遅れた極悪非道な最後進国と言い切ってもよい。
【世のため他人(ひと)のため】という言葉がある。互助互恵・共存共栄に至上の価値を置く我国ならではの慣用句で、公共心の具体的な表出でもある。社会や他人様の役に立つことで自分の存在価値(レゾンデートル)をも満足せしむる行為になる。西洋個人主義では逆立ちしても到達し得ない悟りの境地というほかない。自分の能力が社会や他人様の助けになっていると実感した瞬間、至福の心境に達する。仏教風に言うなら、「解脱」の域に近い。歴史に名を残さなかった多くの無名先達も、ひたすら「世のため他人のため」に黙々と精を出していたに違いない。裏を返せば、「役立たず」は単なる侮蔑語ではなく、対象者の尊厳を著しく害する恐れもあるので、禁句と心得るべきだろう。
物は考え方一つで地獄にも極楽にもなる。会社にコキ使われてると思うか、自分の仕事を通じて世の中や他人様の役に立ってると考えるか、あなたはどちら?
【解脱】げだつ
悩みや迷いなど煩悩の束縛から解き放たれて、自由の境地に到達すること。
悟ること。
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