森会長の「女性蔑視発言への過熱報道」に違和感を覚える理由
2/10(水) 6:01配信/ダイアモンドWEB版
東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長による女性蔑視発言への批判の声が高まっている。森氏が日本オリンピック委員会(JOC)の評議員会で発言した内容は批判されてしかるべきだし、謝罪は当然だ。しかし、その過熱する報道には違和感も覚える。
● 森会長の女性蔑視発言 報道のタイミングに違和感
東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(元首相)の発言が物議を醸しています。日本オリンピック委員会(JOC)の評議員会での「女性を会議に入れると会話が長くなる」という趣旨の発言が、オリンピックの男女平等の精神から大きく外れるという批判です。令和時代の日本において、ましてや21世紀の国際社会においてこの女性蔑視と取られる発言は容認されるべきではないし、世界から痛烈に批判されても致し方ないことです。
しかし、私はこの報道を知り、その後の国内外の反応を眺めていて違和感を抱き始めました。特にこの日本国内における「森喜朗バッシング」です。
東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の会長としての不適切な発言であることは間違いないことではありますが、そこから派生して「そんな会長の下でのオリンピック開催はあり得ない」という論調まで出てくる始末です。果たして、そこを結び付けてオリンピックの開催の是非を考えるのは正しい思考回路なのでしょうか。その辺りを考えたいと思います。
そもそも、森喜朗氏はもともと失言で有名でした。首相在任中、日本を「天皇を中心としている神の国」と表現して物議を醸した神の国発言をめぐる報道は、当時私は大学生でしたが、今でも鮮明に覚えています。
他にも「子どもを一人も作らない女性を税金で面倒見るのはおかしい」という発言、自民党京都府連のパーティーでは「大阪はたんつぼ。金もうけだけを考えていて、公共心のない汚い町」など、過去の失言を探せば枚挙にいとまがありません。
近しい議員たちからの話では、行き過ぎたリップサービス、過剰なファンサービスからくる発言だそうです。しかし、今の時代、マスメディアやインターネットを通じて拡散されることにより、「言葉」だけが無機質に独り歩きしてしまいます。そういう意味では森喜朗氏は、記者たちがその気になれば、いつでも問題発言というネタを見つけやすい人物といえるでしょう。
今回の問題発言の件で私がまず疑問を抱いたのは「なぜ今のタイミングで報じられたのか?」です。会長職を続けて7年間、森会長が今日まで失言をしないで来られたはずがないのは、彼をよく知る関係者や記者たちも皆知っているはずです。これはオリンピックを中止させたいと思っている勢力が、今のタイミングで森氏をターゲットにしたのではないかと勘繰ってしまうのは私だけでしょうか。
森氏をずっと会長職に置いておくことは確実にこのような問題が起こることを関係者は理解していたはずであり、その上で会長としての力を評価していたことの裏返しでもあるわけです。もちろん発言の内容は批判されるべきものであり、私の目から見てもこの発言で全てを失っても仕方がないレベルではあるとも思いますが、報道のタイミングなどについては、気味の悪さというか、違和感を覚えてしまいます。
● 思考停止の大衆心理で 一億総攻撃する病
そして、またもや始まりましたと思ったのが「一人の人間に対する世の中の集中砲火」です。どこを見ても森氏を擁護するコメントは見つかりません。何なら、普段政治や時事ネタについてコメントをしない人までもが怒りのコメントを出しています。
繰り返しますが、明らかに森氏の発言は今の世の中には到底受け入れられるものではありません。だからこそ、このことになら自分も声を大にして批判できる、という心理が働いているような気がしてなりません。「女性蔑視」という今のグローバルスタンダードの視点からもジェンダーの視点からもNGであるこの発言だけに注目し、後のことは何も考えずに批判をしまくるということは、思考停止以外の何物でもありません。
森氏は東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の会長であり、元首相という立場にあり、今なお、強い権力を持っているとみなされる人物であっても、一人の83歳の人間です。そんな老人の失言を、鬼の首を取ったかのように攻撃するのは人道的にいかがでしょうか。
「森氏は国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長とも関係が深いし、それに政治力もある。今回の問題発言を撤回しているし、大目に見てオリンピックの成功に向けて努力をしてもらい、結果で償ってもらおうじゃないか」という寛容さは皆無です。何が何でも徹底的につぶしてやらなければ気が済まない、そういう狂喜の渦に日本国民全員が巻き込まれているような状況だと私は感じています。
これは日本が今、侵されている病です。一億総攻撃病です。今回の症状は「一億森喜朗バッシング」病です。新型コロナに侵食されているだけではなく、それ以上にこの病は蔓延(まんえん)していて深刻であるように感じます。
● オリンピック開催の可否は 冷静に議論すべき
そして、今回の問題で一番違和感を覚えたのは「こんな会長の下でのオリンピックなら中止すべきだ!」という論調があることです。
そもそもオリンピック開催の可否の議論は、新型コロナの感染拡大が原因であり、女性蔑視の問題とは無関係です。新型コロナの影響によって延期され、感染防止策を徹底させることによって何とか開催しようという機運の中で頑張ってきたのではないでしょうか。
にもかかわらず、森氏への感情に思考を奪われ、新型コロナ問題とジェンダー問題を混同し、オリンピック中止を主張するのは冷静さを欠いていると言わざるを得ません。
オリンピックの参加選手たちの姿は、新型コロナに苦しむ世界中の多くの人々に勇気と元気と感動を与えてくれるでしょう。
一刻も早く、日本国民が冷静さを取り戻し、女性蔑視発言の問題に終止符が打たれ、生涯を懸けた戦いをしている選手たちのためにもオリンピックが開催されることを心から願っています。
宮崎謙介(元衆議院議員)
コメント総数;839(12:00現在)
イ.確かに、そんなにオリンピック憲章に込められている平等や人権が大切なら、人権問題のある中国で開催予定の北京冬期オリンピックの今回の件以前にボイコット運動など大きな動きがあってもいいような気がする。
ロ.今、この森バッシングに表で異を唱えることは大変勇気が必要なことです。マスメディアの執拗で容赦が一切ないバッシングには蔑視発言以上の不快な憎悪感情がメディアに間違いなくあります。謝罪しているのにも関わらず、全く許そうという気配すらない。そこには普段メディアが訴える寛容さも多様性も微塵も感じられない。自分と価値観の違う発言は一切許さないという共産主義、全体主義のやり方なのだ。メディアはここ数年で一気にポリコレ思想を利用した思想統制、言論封殺を主とした共産主義全体主義へと傾倒した。しかし、我々の社会がそうであっては断じてならない。だからこそ感じる強い違和感だと思いますね。
ハ.森氏を擁護するわけでは無いですが、一応全文載せますね。
森氏「女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。」
組織委員長の公の発言としては確かに不適切だと思いますが....私は辞任するほどかなぁと思っています。
以前ある朝のワイドショーのMCが
「母親のいない子供は不幸になるに決まってますからね。」
と、テレビで発言されてました。
その方まだ番組やめてませんし、今必死に森叩きしてます。
良くわからない世の中になって来ましたね。
正論だと思う。執筆者宮崎氏のことは知らなかったが、不倫疑惑を週刊誌に暴露されて議員辞職したらしい。政歴を観ると、伝統的保守派に属する御人のようで、ジェンダーフリー(男女平等)思想とは対極にあるのかもしれない。
ジェンダーフリー思想そのものは、過ちや失敗を繰り返してきた人間が創り出したイデオロギーなのだから、十分な吟味(痂疲の有無)もせず礼賛するのは禁物だ。現に、これを金科玉条のように持ち出す御仁を観るがいい。バリバリの左翼か新自由主義者かリバタリアンかはたまたグローバリストばかりではないか。つまり、この思想に憑りつかれた者どもには邪な下心があるのだ。伝統的秩序や文化を破壊して正反対のヒエラルキー(階級)社会にしてしまおう、との。
「男女平等」を叫ぶのであれば、究極の男女差別である男女別競技種目を完全撤廃すべきではないのか。それでこそお天道様と同じ真の平等と言えよう。IOCは何故端から男女別にしたのか? 男女では体力差が歴然としているからに他なるまい。男女間の体力格差を知ればこそ、公正・公平を期すためには男女別(+体重別)にする必要があると判断したに相違あるまい。
然るに、自らの非を認めて謝罪した森発言の「真意」すら確かめもせず、一方的に女性蔑視と決め付け、なおも叩き続けるのは、済んだことは水に流して「和(やわらぎ)」を貴ぶ我国の伝統精神に悖る言動と言わざるを得ない。つまり、シラス的でなくウシハク的どいうことだ。我国の伝統的正義【弱きを救け強きを挫く】とは真逆の、中華思想【溺れる狗を叩く(弱い者いじめ)】になりかねない愚かしいバッシングである。
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