前稿では、ワルター/ウィーンフィルの『未完成』を採り上げたが、ウィンナ・ワルツもまた我が“懐メロ”である。
福岡での小学校時代(昭和29年~32年)、RKBだかKBCだか忘れたが民放ラヂオ局朝のニュース番組テーマ曲がJシュトラウスⅡ『朝の新聞』だった。登校時間になると、この曲が聞こえてきたのを憶えている。そして、大分の小学校(昭和32年~35年)でも、昼休みの校内放送で、『アンネンポルカ』や『ピチカートポルカ』が流されていた。つまり、小学校時代の懐メロクラシックというわけ。
で、それらの演奏は、クレメンス・クラウス指揮ウィーンフィルではなかったのか。クラシック音楽に関心を持ったのは、中学生になってからだから、あるいは後付けの妄想かも知れないけれど。ウィンナ・ワルツ(ポルカ、マーチ等を含む)などウィーン縁の音楽に限れば、そう思わせるほどクラウスは、別格的存在なのだ。
今や伝統行事となった《ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート》の開祖(1941年)がこの人である。何でも父無し児として出生したらしい。貴公子然とした風貌から、フランツ・ヨーゼフⅠ墺匈二重帝国皇帝の御落胤との噂が、まことしやかに囁かれていたという。まぁ、そんなことは、音楽とは何の関係もない。
肝腎の演奏スタイルだが、とにかく他指揮者とは全く聴感が異なる。どう違うかと問われても、返答に窮するけど、う~む。『こうもり』『ジプシー男爵』『シュトラウス一家ワルツ・ポルカ集』の三種CDを保ってるが、何れもスタジオ録音かつモノラルであるにも拘わらず、同時体験しているかの如く生々しく聞こえる、と書けばよかろうか。一般にドイツ風と言われる粘っこい演奏とは対照的に、速いテムポで歌舞伎役者の見得切りよろしく一音一音を際立たせつつ颯爽と駆け抜けて行く感じ、とでも喩えておこう。
同じ“ウィーン風”でも、ニューイヤーコンサートの後任者ウィリー・ボスコフスキーとでは芸風がまるで異なる。
J.シュトラウスⅡ『ワルツ/朝の新聞』
by クレメンス・クラウス指揮ウィーンフィル(1952年録音)
J.シュトラウスⅡ『ワルツ/朝の新聞』
by ウィリー・ボスコフスキー指揮ウィーンフィル
ね、前者の颯爽とした小粋な演奏に心が惹かれるのに対し、後者のそれが野暮ったいと言わないまでも、どこか作為的で鈍重かつ凡庸な演奏に聞こえるでしょ? 大袈裟に書くなら、生来の天才芸術家(エリート)と努力すれど足下にも及ばない職業音楽家(一般庶民)ほど格が違う。苦境期の楽団を支えたボスコフスキーさんには酷だけど。喩えが悪ければ、曲より指揮者を意識させる(作曲者と同格)のがクラウスとすれば、黒子に徹して曲を注目させたのがボスコフスキー、ということにしておこう。
そして、究極の演奏がこれ(↓)
J.シュトラウスⅡ『ジプシー男爵/入場行進曲』
by クレメンス・クラウス指揮ウィーンフィル
所有している全曲盤とは違い、声楽が入ってないが、演奏スタイルは当然ながら同一傾向にある。聴いていると、自らが指揮しているような、妙な錯覚に陥ってしまう。それほど“我が意を得たり”の演奏と言うこと。
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