子供時分、寺田ヒロオの『背番号0』(昭和31年)という連載漫画があった。しかし、プロ野球選手に着せるなんてふざけてる。
(↑)近鉄ファンだった音楽評論家宇野功芳がブルックナーの交響曲0番を指して、《野球選手の背番号ならいざ知らず、交響曲に0番なんてふざけてる》という趣旨のことを書いてあったのを捩ったもの。ただし、漫画と書籍の間には、約半世紀近くの時系列的ズレがある。
別の話になるけれど、大日本帝国海軍零式艦上戦闘機の略称は“ゼロ戦”でなく“れいせん”が正しい。なぜなら、【零】は漢数字だから。因みにアラビア(西洋)数字【0】の英語読みが“ゼロ”である。どうでもいいけど、タイ数字では【๐】と書いて【ศูนย์;スーン】と読む。
1-๑(หนึ่ง;ヌン)、2-๒(สอง;ソーン)、3-๓(สาม;サーム)、4-๔(สี่;シー)、
5-๕(ห้า;ハー)、6-๖(หก;ホック)、7-๗(เจ็ด;チェット)、8-๘(แปด;ペット)、
9-๙(เก้า;カウ)、0-๐(ศูนย์;スーン)
註)末尾の「ク」や「ト」は聴き取れないほど小さく発せられる。
余談ながら、タイ数字って馴染みがなくて殆ど判読不能。スーパーなどの食品・生活品売り場では、未だにタイ数字表記のところもあり、製造年月日や消費期限を確認するのが甚だ難儀である。タイ仏暦は今年(2018年)が2561年だから、そこから逆にタイ数字を割り出す方法もある。またタイ貨幣の金額は、洋数字も併記されているものの、当然ながらタイ数字が記されている。けれども、貨幣によく使われる、0・1・2・5だけならいいが、3・4・6・7・8・9となるともうお手上げですね。
本題に戻って、我が愛する西鉄ライオンズに【0または00】を背負った選手は歴代誰も居ない。強いて挙げれば、西武に継承された後、平成の御世に代わって1996年、羽生田忠克外野手が着けたのが始まり。国内プロ野球正選手としての“史上第一号”は1983年、愛称「マメ」と呼ばれて親しまれた長島清幸外野手(広島)が初めて。背番号【0】を希望した理由は、米大リーグ(MLB)1982年度ナ・リーグ首位打者アル・オリバー外野手(当時モントリオール・エクスポズ所属)が着けていたのに肖りたかったのだとか。
お題【背番号の系譜】ということで、羽生田選手の後継者たちを追ってみよう。
背番号【0】-西武ライオンズ
・羽生田忠克(1996-1997)
・河田雄祐(1998-2002)
・高波史一(2004-2006)
・大崎雄太郎(2007-2012)
・森本稀哲(2014-2015)
・木村昇吾(2016-2017)
・水口大地(2018)
背番号【00】-西武ライオンズ
・マクレーン(2004)
・林崎遼(2011-2012)
・水口大地(2015-2017)
どちらも歴史が浅いし、誰も記憶にないなぁ。それもそのはず、西武に限れば大成した選手はなく、【日陰の背番号】に成り下がってますねぇ。
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