前稿で背番号【0】【00】について書いたが、計算方法としては実数でないためその歴史も浅い。古今東西、数量の最小単位は【1】と相場が決まっている。高校野球では主戦投手、プロ野球でも球団を代表する選手が着用するケースが多い。
ところで、選手の偉業を顕彰して永久欠番とする球団もある。ご参考までに現球団の永久欠番を挙げておく。(監督・コーチ・選手の顕彰目的でない事由は除外)
読売ジャイアンツ
【1】-王貞治(一塁手)・・・1989年制定
【3】-長嶋茂雄(三塁手)・・・1974年
【4】-黒沢俊夫(外野手)・・・1947年
【14】-沢村栄治(投手)・・・1947年
【16】-川上哲治(一塁手)・・・1965年
【34】-金田正一(投手)・・・1970年
阪神タイガース
【10】-藤村富美男(三塁手)・・・1958年
【11】-村山実(投手)・・・1972年
【23】-吉田義男(遊撃手)・・・1987年
中日ドラゴンズ
【10】-服部受弘(投手・捕手)・・・1960
【15】-西沢道夫(一塁手・投手)・・・1959年
広島東洋カープ
【3】-衣笠祥雄(捕手・三塁手)・・・1987年
【8】-山本浩二(外野手)・・・1986年
【15】-黒田博樹(投手)・・・2016年
埼玉西武ライオンズ
【24】-稲尾和久(投手)・・・2012年
東北楽天ゴールデンイーグルス
【77】-星野仙一(4代目監督)・・・2018年
球団消滅で失効した永久欠番は、大阪近鉄バファローズの【1】-鈴木啓示(投手)・・・1985年制定の一例だけがある。まあ万民が認める統一基準があるわけでなし、その時々の球団の思惑次第でどうにでもなることだから、観ようによっては可笑しなことも起こりうる。例えば金田正一投手。国鉄スワローズに17歳で入団し、通算400勝(日本記録)のうち、在籍中に353勝したにも拘わらず、継承球団たる東京ヤクルトでは永久欠番ではない。また、1917年、ロシア革命で家族共々日本へ亡命してきたヴィクトル・スタルヒン投手(1916-1957)。日本野球機構(NPB)初の通算300勝達成者で野球殿堂入り(1960年)もしながら、背番号【18】【17】はいずれも永久欠番になっていない。尤も、プロ入りした東京巨人軍を除き、後の所属球団が全て消滅してしまった特殊事情にも因ろう。あまつさえ、頼みの巨人には記録を破った張本人金田投手が移籍していたのだから、不運が重なったとしか言いようがない。
本題に戻そう。我が西鉄ライオンズは二リーグ制発足(昭和25年)に際してパ・リーグに新規参入し、球団名を西鉄クリッパースと称した。愛称ライオンズになったのは翌昭和26年、セ・リーグの西日本パイレーツを吸収合併してから。余談ながら本拠地平和台球場は、パの西鉄とセの西日本が共用していた。ゆゑに日程の都合により西鉄は、自前の春日原(かすがばる)球場を併用していた。合併後も昭和28年までは数試合の公式戦が行われ、おのれの記憶にも幽かに残っている。多分、対毎日オリオンズ戦だったと思うが、三塁(毎日ベンチ)側内野席から観戦、別当薫外野手【25】、荒巻淳投手【11】らをナマで観ていたことになる。ただし吾輩は未だ就学前の5歳児、後付けで突然妄想が湧いた可能性も否定しない。
またまた話が逸れた。そんなわけで、お題の出発点は、西鉄ライオンズになってから(つまり昭和26年=1951年)としよう。すると、次のようになる。
・今久留主淳(内野手)・・・1951-1956年
・小渕泰輔(内野手)・・・1957-1960年
・大矢根博臣(投手)・・・1961-1962年
・伊藤光四郞(外野・一塁手)・・・1963-1970年
・高橋二三男(外野手)・・・1971-1972年
・ドン・ビュフォード(内・外野手)・・・1973-1975年
・マティ・アルー(外野手)・・・1976年
・ジム・タイロン(外野手)・・・1979-1981年
・秋山幸二(外野・三塁手)・・・1987-1993年
・佐々木誠(外野手)・・・1994-1998年
・グレッグ・ブロッサー(外野手)・・・1999年
・高山久(外野手)・・・2000-2003年
・ホセ・フェルナンデス(一・三塁手)・・・2004-2005年
・栗山巧(外野手)・・・2008-現在
助っ人外人と移籍組を除けば、生え抜きで大成したのは秋山・栗山両選手ぐらい。それでも、大概の選手は憶えている。黎明期の今久留主・小渕両選手に至ってはナマで観戦したこともある。西武になってからも足繁く西武球場に通ったが、弱かった根本監督時代なので他の選手を直接観た憶えはない。どうでもいいけど、秋山選手は入団翌年から暫く、球団唯一の永久欠番【24】を着けていた。現役引退から永久欠番制定までに大幅な年月が経過すると、こんなこともあるのですね。
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