感動や共感を呼び覚ます(つまり「浪花節的」泣かせる)韓流ドラマは皆無に等しい。そもそも【文化】が違いすぎるのだから当たり前だ。それでも、本稿執筆のために幾篇か改めて視直してみた。結論から言うと、六・七世紀頃の歴史に興味を持っているせいか、視聴に堪えうるドラマと言えば、『薯童謡(ソドンヨ)』(SBS;2005年)と『善徳女王』(MBC;2009年)ぐらい。
奇しくも同じ時代(高句麗・新羅・百済の三国鼎立)に設定されており、【三国(三韓)統一】が共通のキーワードとなって頻繁に出て来る。ただし、これは歴史(結末)を既に知っているドラマ制作者が勝手に[後付け]で考えだした“演出・脚色”にすぎなかろう。つまり、煎じ詰めれば『薯童謡』が単なる百済の王位争奪ドラマとするなら、『善徳女王』はあくまで新羅の王位争奪戦に過ぎない。したがって、両作品とも、綺麗事を並べた建前台詞とは裏腹に、[裏切り][盗み][拷問][脅迫][謀略][妬み・嫉み][虚偽]といった不道徳の限りを尽くした血で血を洗う凄惨な殺戮合戦が繰り広げられる。
「建国神話」に繋がる大昔が舞台とあっては、知られざることも数多あろう。かつ、現代の価値観に基づいて脚色されてもいよう。したがって「史実」に適うかどうかはどうでもよく、歴史の過程で育まれた「伝統文化」に興味が湧く。韓流ドラマへの違和感は、まさにここ(【文化】の違い)に起因していると思う。両作品は、我国との【文化】の違いを厭というほど思い知らせてくれる
翻訳の仕方にも因ろうが例えば「民(たみ)」。君主・帝王に統治されている人々、要するに「臣民」を指す語として用ゐられる。この「民」と訳された語、両作品とも原語(韓国語)では明らかに「白丁(ぺくちょん)」と発音されている。当時(三韓時代)は、無位無官の一般庶民を指す語だったのが、李氏朝鮮以降差別語化したらしい。律令制度下の我国でも無位無官の者を「白丁(はくてい)」と称したが、制度廃止により「白丁」自体が消滅したため、差別語となることもなかったと言う。ゆゑに現代では、時代劇の多くが「民・百姓」と言い改められている。
何が言いたいのかというと、現代韓国民なら「白丁」を“被差別民”と捉えるから虐げられた人々のイメージがより強くなる。また、それが【恨(はん)の文化】と呼ばれる所以でもあろう。しかし、翻訳に当たって「白丁」のままだと我々日本人には馴染みがないし、仮に我国流に「民」或いはもっと強く「百姓」と訳したとして、身分制度(士農工商)に照らせば「民(工商)」よりも上に来てしまい、放送禁止語(差別語)でもないから悲惨なイメージが少しも伝わらない。
これですよ、これ。そもそも歴史的経緯が異なっている。極論すれば【屈服(力でねじ伏せる)統治】か【悦服(悦んで従わせる)統治】かの違い。我国は万世一系の天皇を戴き、政体も公家(貴族)→武家(士族)→民政と変遷を遂げながらも、終戦直後の数年間を除き、支配層・被支配層ともに同一民族(厳密には違うが)で構成され続けてきた。しかし、当時(三国三韓時代)の朝鮮半島は違う。支配層(王族)に限れば、高句麗と百済が扶余系なら新羅は女真系と、何れも北方系民族による異民族支配を強いられていたということ。だから、現代韓国・北朝鮮民の祖先たる朝鮮族は単なる被支配者にすぎず、歴史を動かす主役には成り得ない。
そこで『薯童謡』の主人公プヨ・チャン(ソドン公)も『善徳女王』も「白丁」(朝鮮族の祖先)を第一に思いやる人物であったかのように“脚色”せねばならず、そこに無理が生じる。ドラマでは、ソドン公も『善徳女王』の徳曼(=善徳女王)も幼少期は「白丁」として育ったことになっているが、当時の社会情況からして史実とするには甚だ疑わしい。
支那・朝鮮は歴史的に観ても利益社会(ゲゼルシャフト)先進国。物語全体が損得勘定や打算(下心)に基づくゼロサムゲーム(殺るか殺れるか)が展開される。台詞も「奪う」「盗む」「捨てる」「利用する」といった刺激的な台詞が飛び交い、映像が険悪な人間関係を助長する。自ら見た事、聞いた事しか信じない夜警社会らしい描き方である。「愛情」「友情」「孝行」「忠誠心」などの台詞がないではないが、喜怒哀楽が激しい大袈裟な演技のわりには情感に乏しい。要するに自ら見聞きした物しか信じず、他人を思いやる(察する)ことに疎い人々が視聴者なのだから、とにかく諄いし理窟っぽくもあり何ともけたたましい。台詞自体が会話というより論戦か口喧嘩のように聞こえる。
本題から大きく逸れた話題に終始したが、最後にお気に入り曲を聴くことにしよう。
『薯童謡』OST
3.꽃빛(花の色) - 금선애(クム・ソネ)
『善徳女王』OST
1. Main Title - 박정식
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