☆ 志の低い現代サラリーマン
今時の奉公人を見るに、いかふ低い眼の著け所なり。スリの目遣ひの樣なり。大かた身のための欲得か、利發だてか、又は少し魂の落ち著きたる樣なれば、身構へをするばかりなり。
我が身を主君に奉り、すみやかに死に切つて幽靈となりて、二六時中主君の御事を歎き、事を整へて進上申し、御國家を堅むると云ふ所に眼をつけねば、奉公人とは言はれぬなり。上下の差別あるべき樣なし。
されば、このあたりに、ぎしと居すわりて、神佛の勸めにても、少しも迷はぬ樣、覺悟せねばならず。
【 訳 】
今時の奉公人を見ていると、志が大変低いように思われる。あたかもスリの目配りみたいなものである。大方は自分のための欲得か、小利口さか、また少しは心の落ち着いているようなのでも、何かと格好をつけるだけである。
しかし、そうした精神ではだめなので、自分の身体を主君に差し出し、速やかに死にきって幽霊にでもなり、いつも主君の身の上を案じ、問題を整理しては具申し、藩の基礎を案じ固めるというところに着眼しなければ、奉公人とは言えぬものである。そうした点では、上下同じ心構えでなくてはならない。だから、この辺りにしっかり腰を据えていて、仮に神仏のお告げがあったとしても、少しも迷わないように覚悟する必要がある。
本文中の「奉公人」を副題にある「サラリーマン」に、「主君」を「会社」或いは「役所」と置き換えて読めば、そのまま現代にも当てはまりそうですね。
「葉隠」の主題は、「死ぬことと見つけたり。」とあるように、死に狂って(真剣に)生きることであろうと勝手に解釈しています。それを邪魔するのが、「私利私欲」といった私心(邪念)なのでありましょう。
何度も同じことを書くようで恐縮ですが、平時に見せる日本人の姿は、今も昔も変わらないようです。自由とは束縛のない状態という原義を念頭におくと、人間は限りなく易きに流されて勝手気ままに振る舞う“一面の真理”を、知覚できているか否かでしょうね。
年を取るに従い、万人に共通で普遍的な「道徳」などこの世に存在しないのではないか、という気がしてきました。それよりも、他人に関係なく我が事なのだから、己自身が身を修めていくという意味で「修身」のほうが、日本人の感性にはしっくりくるのではないでしょうか。
じいう 【 自 由 】
1.自分の意のままに振る舞うことができること。
また、そのさま。
2.勝手気ままなこと。わがまま。
3.《 freedom 》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害
などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に
自己自身の本性に従うことをいう。
4.法律の範囲内で許容される随意の行為。
ありがとうございました。
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