☆ 言行が心を変える
武士は萬事に心を付け、少しにても後れになる事を嫌ふべきなり。就中物言ひに不吟味なれば、「我は臆病なり、その時は逃げ申すべし、おそろしき、痛い。」などといふことあり。ざれにも、たはぶれにも、寢言にも、たは言にも、いふまじき詞なり。心ある者の聞いては、心の奧おしはからるるものなり。兼て吟味して置くべき事なり。
【 訳 】
武士は万事に気を配り、少しでも失敗しそうなことは嫌うべきである。なかでも、物の言い様に注意を払わず、「私は臆病者である。その時は逃げましょう。恐ろしい、痛い。」などと言うことがある。こうした言葉は、冗談にも、遊び半分にも、寝言、戯言にも、言ってはならない言葉である。心ある者が聞いたら、真意を推測されてしまうものだ。常に注意すべきことである。
【 解説 】
我々近代人の誤解は、まず心があり、良心があり、思想があり、観念があって、それが我々の言行に表れると考えていることである。また言行に表れなくても、心があり、良心があり、思想があり、観念があると疑わないことである。
しかし、ギリシャ人のように目に見えるものしか信じない民族にとっては、目に見えない心というものは何ものでもない。そしてまた、心という曖昧なものを操るのに、何が心を育て、変えていくかということは、人間の外面に表れた行動と言葉で以て占うほかはない。
「葉隠」はここに目をつけている。そして言葉の端々にも、もし臆病に類する表現があれば、彼の心も臆病になり、人から臆病と見られることは、彼が臆病になることであり、そして、ほんの小さな言行の瑕瑾が、彼自身の思想を崩壊させてしまうことを警告している。そしてある場合、これは人間にとって手痛い真実なのである。
我々は、もし自分の内心があると信ずるならば、その内心を守るために言行の端々にまで気をつけなければならない。それと同時に、言行のしばしに気をつけることによって、かつてなかった内心の情熱、かつて自分には備わっているとは思われなかった新しい内心の果実が、思いがけず豊富に実っていることもあるのである。
自分だけなのかもしれませんが、どうも三島由紀夫の解説を読むと、簡単なことが余計にややこしくなってしまいそうです。ここは単純明快に「言行一致」を教えているだけではないか、という気がするのですが如何でしょう。
突然、ギリシャ人と比較されても、西洋人の物の考え方を研究したこともない不學者の自分にとって、どうもピンときません。ただ、人間は“善人”になるよりも根っからの“悪人”になるほうが遙かに難しそうだ、ということにだけは気づきました。これは、人類史上の大発見になるかもしれません。
ありがとうございました。
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