☆ 行き過ぎの哲学
中道は物の至極なれども、武邊は、平生にも人に乘り越えたる心にてなくては成るまじく候。
弓指南に、左右ろくのかねを用ふれども、右高になりたがるゆゑ、右低に射さする時、ろくのかねに合ふなり。
軍陣にて、成功の人に乘り越ゆるべきと心掛け、強敵を討ち取るべしと、晝夜望みをかくれば、心猛く草臥もなく、武勇を顯す由、老士の物語なり。平生にもこの心得あるべきなり。
【 訳 】
「中庸」は確かに行き着いた境地だが、武芸に関しては、中庸といった構え方をせず、普段でも人を乗り越えた気持ちでいないと務まらないものである。
弓の指導に、左右平らなかねを使うが、とかく右高になりたがるから、右を低めにして射させる時、はじめて釣り合いがとれるのである。
戦いの最中に、武勲ある人より一段と立派な働きをしようと考え、強敵を討ち取ろうと昼夜の区別なく思案する時、勇猛果敢、疲れる事もなく武勇を顕すのだ、ということ。老勇士の物語である。普段でも、こうした心得は持っていなければならない。
【 解 説 】
いったん行動原理としてエネルギーの正当性を認めれば、エネルギーの原理に従うほかはない。獅子は荒野の彼方まで突っ走っていくほかはない。それのみが獅子が獅子であることを証明するのである。常朝は行き過ぎということを精神の大事なスプリングボード(契機)と考えた。
武道の心得がまるでない者にとって、弓道を例にしたこの「教え」は、どうもわかりにくいですね。
弓の引き手側右半身が、とかく力んで高くなりやすいから、右肩を下げ気味にした方が的(まと)を射抜ける、という意味でしょうか。文の前後からすると、余計にわからなくなってしまいます。
三島の解説から、無理矢理こじつけると、いざという時には「ほどほどに」といった中途半端な気持ちではダメで、無我夢中になって突進するのみ、むしろ行き過ぎと思われるくらいでちょうどよい、ということでしょうか。
ありがとうございました。
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