☆ ユダの裏切り ☆
第32曲~第34曲(抜粋)
福音史家 「なお語り給うほどに、見よ、十二弟子の一人なるユダ来たる。而してこれに従うは、祭司長らと民の長老らより遣わされし多数の衆、皆剣と警棒を携えおれり。イエスを売る者、予め合図を定めて、これらの衆に告げおきたり。『我が口づけする者、それなり。これを捕えよ。』 斯くて、忽ちイエスに近づきて言う。」
ユダ 「安かれ、ラビ!」
福音史家 「而して口づけせり。イエスこれに言い給う。」
イエス 「友よ、なにゆえ来たりしや?」
福音史家 「この時人々進み寄りてイエスに手をかけ、これを捕う。
見よ、イエスと共にありし者の一人、手を伸べ剣を抜きて、大祭司の下僕に斬りつけ、その片耳を削ぎ落とせり。茲にイエス彼に言い給う。」
イエス 「汝の剣をもとに収めよ。すべて剣を取る者は、剣にて滅ぶるなり。我は我が父に請いて、十二軍団に余る御使を、今送らすこと能わずと思うか? されど、もししかせば、聖書はいかで成就すべきか? その言の如くに成らざるべからず。」
福音史家 「この時しも。イエスは衆に向かいて言い給う。」
イエス 「汝等は人殺しを追うが如く、剣と警棒を携え、我を捕えんとて出で来たるか。我は日々汝等の中に坐し、神殿にて教えいたりしに、汝等我を捕えざりき。されどすべての事斯く成れるは、予言者たちの録したる言の成就せんためなり。」
福音史家 「茲に弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げ去りぬ。」
* コラールファンタジー(第35曲) *
人よ、汝の大いなる罪を悲しめ。
キリスト御父の懐を捨て
地に降り給いしはそのゆえなり。
清く優しき乙女より、
ここなる我等のため生まれ給えり。
こは執り成しの仲保者とならんがためぞ。
死せる者には生命を与え、
すべての病を制し給えり。
斯くして時は迫り来て
彼は我等の犠牲(いけにえ)としてほふられ、
我等の罪の重き荷をば
長き十字架の苦しみもて負わんとし給う。
コラール旋律は、自由な和声付けで合唱隊によって歌われ、管弦楽がそれに前・間・後奏をつけると同時に、コラール合唱にも伴奏をつけるのである。フルート、オーボエの奏する音型はいわゆる「すすり泣き」モティーフである。
人々はもはや裏切り者に怒りを感ずることは出来ない。イエスを残して逃げ去った弟子を非難することも出来ない。自らがユダであり弟子であることを知っているからである。すすり泣きモティーフは、まさにそのことに思い至った人々のみに許される悲嘆を物語っている。
唐突ですが、「犠牲(いけにえ)」とも読めるのですね。知りませんでした。「犠牲(ぎせい)」といった場合、とかく「無駄死」や「犬死」の意味合いを連想してしまって、誤解していました。
いけにへ 【 生け贄/犠牲 】
1.人や動物を生きたまま神に供えること。また、その供え物。
2.他人やある物事の為に、生命や名誉・利益を投げ捨てること。
また、その人。 = 犠牲(ぎせい)。
ここは聖書ゆゑ、[1]とも採れますが、何せ“神の子”であるならば、[2]でなければならない。同じことが、靖国神社の英霊にも言える気がします。國語には“人柱”という類義語があります。而して、御祭神の助数詞は“柱”です。何となれば、英霊とは、まさしく「国家」を支えている“大黒柱(屋台骨)”の神様であります。そして、日本人としては、英霊を出した家が“誉れの家”なら、その子孫は皆、“神の子”である。屁理屈と喚こうが、誰にもわかりやすい簡単な理屈でしょう?
☆ ペテロの否認 ☆
第45曲~第46曲(抜粋)
福音史家 「さてペテロは外にて中庭に坐しいたるに、一人の下女近づきて言う。」
下女一 「汝もガリラヤ人イエスと共に居たり!」
福音史家 「彼はすべての人の前に打ち消して言う。」
ペテロ 「我は汝の言うことを知らず。」
福音史家 「かくて門まで出で行きたる時、他の下女、彼を見て、そこにおる者らに言う。」
下女二 「この人もナザレのイエスと共に居たり!」
福音史家 「彼重ねて打ち消し、誓いて言う。」
ペテロ 「我はその人を知らず。」
福音史家 「しばらくして、そこに立つ者ども近づきてペテロに言う。」
民衆 「確かに汝も、彼の一味なり。汝の国訛り汝の正体を現せり。」
福音史家 「茲にペテロ、空恐ろしきことと否み、誓いて言い出す。」
ペテロ 「我はその人を知らず!」
福音史家 「おりしも鶏鳴きぬ。ペテロ『鶏の鳴く前に、汝三度我を否まん』と告げ給いしイエスの御言葉を思い出し、外に出でていたく泣けり。」
ペテロの否認場面は、これまでの事実上のひと続きである。クライマックスは、福音史家の「いたく泣けり」のくだりである。泣いたのはペテロだが、福音史家も自ら泣きながら、ペテロの号泣について語る。いや、福音史家ばかりではない。次のアリアも泣くのである。
* アリア(第47曲) *
憐れみ給え、我が神よ、
したたり落つる我が涙のゆえに。
こを見給え、心も目も
汝の御前にいたく泣くなり。
憐れみ給え、憐れみ給え!
このアリアの出だしが、ペテロの「我はその人を知らず」と言った時の旋律とよく似ているのは、決して偶然ではない。ペテロの後悔を己が後悔とするこのアルトのアリアは、素晴らしい独奏ヴァイオリンによっても、最も感動的な曲の一つである。
* コラール(第48曲) *
たとえ我汝より離れ出ずるとも、
再びみもとに立ち返らん。
まことに御子は我等を
その悩みと死の責苦によりて贖い給えり。
我は我が咎を否まず、
されど汝の恵みと愛は
絶えず我がうちに宿りおる罪に勝りて
遙かに大いなり。
懺悔する者は、このコラールで初めて慰めを見出すのである。
東川清一氏の解説に同感です。では、これにて失敬、では身も蓋もないので、少し膨らし粉を入れておきましょう。
この第47曲のアリアは、バッハが最も訴えたかった曲ではないか。三組のCDとも、それぞれ素晴らしい。わけても実況録音されたメンゲルベルク盤では、演奏会場の「すすり泣き」さえ聞こえてくる、と自らも指揮する宇野功芳氏は別著で書いてあります。
事実、ご婦人と思しき人の「すすり泣き」が聞けます。これでもかというくらい悲しく切ない独奏ヴァイオリンも凄い。誇張に満ちた“大芝居”演奏が、この曲では、むしろメンゲルベルクの好い味を出している。
いま、ラミン盤で当該部分を聴きながら書いていますが、ドイツ語歌詞がわからないので、コラールを以て慰めを受けた感じはありません。懺悔していないからでしょうか。ともかく、第48曲はJ.リスト作の夕拝用コラール《 Werde munter, mein Gemüte 》(1642年)から採られたとのこと。大バッハが生まれる約半世紀前の曲です。
ところで、全国の小川さん、歓喜致しましょう。 Bach は、“小川”を意味します。ベートーヴェンだか誰だか忘れましたが、「バッハは、小川ではなく音楽の大河だ。」と評していましたね。
ありがとうございました。
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