聖書では、アダムとイヴが禁断の果実を食べて、唯一神エホバに楽園を追放されるところから人類の物語が始まります。そして「神の子」とはイエス・キリストだけで、罪を犯す「人類」と絶対に過ちを犯さない「神・神の子」とは明確に区別されています。さらに人類は、自分が生き残るために親兄弟を殺した「カインの末裔」しか現存しないことになっていたと思います。
私の勝手な解釈ですが、キリスト教世界では、人類は生まれながらに原罪を背負っており、神の忠実な下僕になることで初めて免罪される、という上下関係がはっきりした屈服統治の土壌があるのではないか、と勘ぐってしまいます。
これに対し、「日本神話」では、神様たちがたくさん出てきます。大酒呑みもいれば、人間の女を追いかけまわして子供を産ませる神様もいたりして、なんとも大らかで人間的ですよね。そんなことから、「自分は神の子孫」と思ったりしたわけです。皇祖は確かに慈悲深い天照大神なのかもしれませんが、ほかの神様たちは、人間との区別がつかないほど渾然一体になっています。その神々は、善行ばかりでなく、人間と一緒になっていじめられたり泣いたり笑ったり過ちを犯したりしています。
したがって、日本の「八百万の神」は、人間と同列あるいはちょっとだけ高い位置にいるにすぎず、上下関係よりも共存関係にあるような気がします。キリスト教に比べれば、現実社会に極めて近いようです。だから、神様の良い部分だけを取り入れて人間社会に活かす、という「知恵」が育まれたのではないか、と考えています。そのノウハウは、その後に外来文化を受け入れても、取捨選択して「和魂」を失わないことで証明されているのではないでしょうか?
そして、「和魂」の本質とは、悦服統治による互助互恵型人間社会の実現ではなかったか、と愚考いたしております。
2006年11月4日(土)の記事
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