古代から今日まで、日本人の習性(道徳観)は、多少の変遷はあっても、根本においてなんら変わっていないような気がする。現代社会が歪んで見えるのは、マスコミによって、特殊な日本人の姿ばかりを見せられ過ぎているためではないか。日本人なら、おそらく『教育勅語』を全否定できないだろう。己の生活心情(信条)そのものなのだから。
「おじいちゃん戦争のことを教えて」(中條高徳著)の中で、アメリカで学ぶ孫娘に対し、“朕”の部分を“日本国民”に置き換えて読んでごらん、違和感がないはず、と言っておられる。また、現行教育基本法については、
『“個”のみが強調され、“公”がほとんど無視されている。
人間は“個”のみでは生きていけない。“個”のみで生きら
れるならば、教育など必要ない。“個”と“公”を調和させて
生きるのが現実であり、大切なこと。』
と、批判的である。
いま、日本の底力を恐れる反日国家は、「天皇」「靖国神社」「教育」の三点セットで攻めてきている。日本人の“誇り”がそこにあるからだ。彼らは、内心では日本が羨ましくて仕方がない。いくら逆立ちしても叶わぬから、それなら日本人を自分たちと同レベルまで貶めてしまえ、というわけだ。しかし、多くの日本人は、三点セットの有難さを理解していない。生まれたときからあるものなので、太陽や空気と同様、無くなってみないと気がつかないのだろう。
少数意見尊重という民主主義の一面のみを見て、少数派の意見に引きずられるのは間違いである。逆に、多数決が究極の選択でもない。この制度の長所は、多くの意見に耳を傾けるところにある。つまり、他人の意見を聞いて、自分には考えつかなかったアイデアを知る。個人の意見は十人十色で、最後は纏まりがつかなくなる。そこで、次善の策として多数決を採用しているにすぎない。共産主義や独裁者の失敗は、この裏返しだからである。一党または一人の独裁政治は、独断専行に堕し、民衆を面従腹背にしてしまうからだ。
2006年5月24日(水)の記事
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