「マタイ傳による受難曲」の続きです。CDは数多く出ていまして、そのうち所蔵するのは次の三組です。
一、ウィレム・メンゲルベルク指揮(昭和十四年録音)
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
アムステルダム・トーンクンスト合唱団
ツァンクルスト少年合唱団
カール・エルプ(テノール;福音史家)
ウィレム・ラヴェッリ(バス;イエス)
ジョー・ヴィンセント(ソプラノ)
イローナ・ドゥリゴ(アルト)
ルイ・ファン・トゥルダー(テノール)
ヘルマン・シャイ(バス)
二、ギュンター・ラミン指揮(昭和十六年録音)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
ライプツィヒ・聖トーマス教会合唱団
ライプツィヒ・聖トーマス教会少年歌手二人
カール・エルプ(テノール;福音史家)
ゲルハルト・ヒュッシュ(バリトン;イエス)
ティアナ・レムニッツ(ソプラノ)
フリーデル・ベックマン(アルト)
ジークフリート・シュルツェ(バス;ピラト)
三、カール・リヒター指揮(昭和三十三年録音)
ミュンヘン・バッハ管弦楽団
ミュンヘン・バッハ合唱団
ミュンヘン少年合唱団
エルンスト・ヘフリガー(テノール;福音史家)
キート・エンゲン(バス;イエス)
アントニー・ファーベルク(ソプラノ)
マックス・プレープストル(バス)
イルムガルト・ゼーフリート(ソプラノ)
ヘルタ・テッパー(アルト)
ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(バス)
二組が戦前のSP復刻、三組目だけがステレオ初期の録音ということになります。ステレオ盤は、奇しくも『月光仮面』が放映されていた頃のものですね。
比較して、いずれも好演とは思いますが、専ら愛聴しているのはラミン盤です。ゆかりの聖トーマス教会で録音され、当時のトーマスカントルが指揮しており、本場中の本場物です。但し、如何せん戦時下とあって録音状態がひどい。
その点、リヒター盤は、録音・演奏ともによいが、何かいまひとつ食い足りないです。なぜか。そう、プロにありがちな「こんなの軽いもんよ」といった臭いを嗅ぐのであります。それに、国際色豊かな歌手陣、かつオケがカトリック圏の南独とあっては、逆に些か遜色があるのもやむを得ません。同じドイツでも南と北では音色が違うんですね。北は暗く、南は明るい。
メンゲルベルクは、戦前はオランダの名指揮者として誉れ高き人でしたが、ナチスへの協力を糾弾され、戦後まもなく世を去っています。演奏自体、歌舞伎演奏とでも評すべき、如何にも時代がかった隈取りの激しい“大芝居”が聴けます。
戦前福音史家役の典型がカール・エルプとすれば、戦後代表がスイス生まれのエルンスト・ヘフリガーでしょう。好みから言えば、断然エルプさんに軍配を上げますが、ヘフリガーさんは何度も来日した親日家で日本歌曲の録音もあり、義理のうえも人情からも、好きです。そもそも、二人の声質が似ていて、名前を伏せたら見分け(聞き分け?)が出来ないほどです。
イエス役のヒュッシュさんがいいですね。誇張のない賢人(?)らしい声質。戦後の一時期、東京芸大の先生でした。あらゑびす氏は「“古武士”を思わせる」と評しておられます。自分は「そうかな?」ですが。
あくまで個人的な好みでラミン盤を押すのは、宗教音楽に必須要件であるよい意味での素人っぽさ、真剣味、敬虔さなどが感じられるからです。ほかの二組にそれがないとはいいませんが、如何にも音楽プロ集団の所産でしかない。聴かせ上手で巧くはあるが、宗教的感動とは質が違うのです。宗教楽に女の艶(あで)声は逆効果。
自分は第二外国語としてドイツ語を専攻したものの、講義を怠けていましたから、歌われている原語(ドイツ語)がわかって聴いてるわけではありません。いきおい、歌詞よりも器楽部分の起伏で登場人物の内心を感じ取るのであります。
特に、第78曲(終曲)「我ら涙を流しつつ跪き」での低音部の肺腑を抉るうねりが凄い。民衆の犯した過ち(囚人を救い、義人を磔にした)に対する悔悟の念が、自分のこととしてひしひしと伝わってきます。
民衆が「バラバ!!(を赦免せよ。)」と叫ぶときの不協和音。イエスが絶命するときの静寂。さんざん罵りながら最後には「げにこの人は神の子なりき。」と呟く民衆の節操のなさ。歌詞がなくとも情景が脳裏に浮かぶかのようです。
なぜ受難曲やカンタータ(昔は「交声曲」といったらしい)を好むかと問われれば、何と言ってもコラール(衆讃歌)があるから、と答えます。これは、教会に伝わる昔からの“讃美歌”なのですね。従って、如何に大バッハといえども、オリジナルなものはほとんどない、といってよいほどです。
この頃は、今をときめく「著作権法」といったものはなく、他人の作品をパクるのは半ば常識でもあったようです。現に、バッハとて、ヴィヴァルディをパクったりしています。ということは、バッハがヴィヴァルディの作品を既に知っていたということですね。
この「マタイ」でのコラールには、パウル・ゲールハルトの詩になるハンス・レオ・ハスラー作曲の世俗曲「おお血と傷にまみれし御首」が、原詩節を換えて何度も使われています。その代表例として第63曲で歌われるコラール(原曲の第一節と二節に相当する)の歌詞を転載します。例によって音楽は流れません。
おお、血と傷にまみれし御首
痛みと辱めに歪めり
おお、嘲られんとて
茨の冠を結われし御首!
おお、常ならば美わしき飾りに輝き
こよなき誉れと飾りを頂く御首
今は嘲弄の極みを受く
御身ぞ、我には慕わしけれ
御身、気高き御顔よ
常ならば御身の前に
世の大いなる権威も恐れ戦くものを
今御身は如何に唾せられし
今御身は如何に色失せ給いし
誰の打ちたるか、その御眼(まなこ)
如何なる光も並び得ぬ光の源を
斯くも無残に閉じ塞ぎしは?
O Haupt voll Blut und Wunden
Voll Schmerz und voller Hohn
O Haupt, zu Spott gebunden
Mit einer Dornenkron!
Q Haupt, sonst schön gezieret
Mit höchster Ehr und Zier
Jetzt aber hoch schimpfieret
Gegrüßet seist du mir.
Du edles Angesichts,
Vor dem sonst schrickt und scheut
Das große Weltgerichte,
Wie bist du so bespeit
Wie bist du so erbleichet !
Wer hat dein Augenlicht,
Dem sonst kein Licht nicht gleichet,
So schändlich zugericht't ?
あれれ。原詩に nicht という否定語が出てきましたね。これには、苦い思い出があります。
ウィーンからベルリンへ向かうルフトハンザF-50機で、パーサーが「パンのおかわり如何ですか?」(もちろん日本語ではなかった)と訊くものですから、「要りません」のつもりでうっかり“nicht danke”とやってしまったのであります。
おそらく、「ありがたくない(迷惑だ)」といった意味になるのでしょうか。狭い機内ゆゑ、搭乗客一同の大爆笑ならぬ失笑をかって愉しませてしまいました。そのパーサーが返してくれた言葉が憎い。最初は驚いたふりして大げさに仰け反ってみせたあと、笑顔に戻り、日本語で「ありがとう。」だって。
たぶん、“nein danke”が正しいと思う。ああ、学生時分、真面目に勉強しておけばよかった。
ありがとうございました。
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